セカンダリー・プレイス
「あの、すみません。あなたとお会いしたのは、その時だけの一度きりだったんですよね?」
自分でもおかしな聞き方をしているとは思いながら、相手の様子を伺った。今度は彼がキョトンとした様子を一瞬浮かべたが、先ほど同じようにキョトンとした態度を取った自分に比べると、あっという間だった。もし彼の顔から少しでも視線を背けていたら、キョトンとした表情の彼を見ることはなかっただろう。これはもっと後になって感じたことだが、それ以降、彼のキョトンとした表情を見ることはなかった。それだけ彼がしっかりとした性格なのかも知れないが、ある瞬間に、彼がキョトンとした顔を思い浮かべようとする時が来るということに、その時のなつみは想像していなかったことだろう。
「ええ、そうですよ。どこかですれ違ったことはあるかも知れませんが、面と向かうのは、その時以来二度目になります」
そう言われて、なつみは、以前一緒に呑んだという時の記憶を思い出そうとするが、どうにも思い出せない。しかし、それ以外の記憶の中に、彼との記憶が渦巻いていたのを思い出していた。
「藤原さん?」
となつみは呟いた。
「えっ?」
今度は、目の前の男が驚く番だった。
「ええ、確かに私は藤原ですが、私はお名前をお教えしたという意識はないのですが……」
と言って、なつみの前で初めて訝しそうな表情をした。
「なぜか、お顔を拝見していると、その名前が頭に浮かんだんです。あなたに似た雰囲気の人で藤原さんという人を知っていたから、勝手に想像してしまったんでしょうね。失礼しました」
と、取ってつけた言い訳だったが、目の前にいる藤原が、そのことに気付いたかどうか、今の様子からは分からない。
しかし、取ってつけた言い訳ではあったが、なまじウソというわけではない。確かに似たような雰囲気の男性は、前に勤めていた会社にもいた。その人の名前が確かに藤原だったのだ。
そういう意味では、なつみの言葉は何もないところから生まれた「真っ赤なウソ」ではなかった。
――そういえば、藤原さんお元気かしら?
藤原というのは、初老の男性だった。
目の前にいる藤原は、そこまで年を取っているようには見えない。だが、最初に見たイメージが少しずつ変わって行っている。なつみは元々年上が好きで、
――中年男性の落ち着いた雰囲気は、自分が同じくらいになるまで、好きでいるに違いない――
と思っていた。
会社にいる頃、藤原という男性には、かなりの好意を抱いていた。ひょっとすると、社会人になって最初に意識した男性だったのかも知れない。
しかし、彼はいつも一人でいて、相手が男性であれ、女性であれ、近づこうとすると、バリケードを自分で張っているかのように、自らを閉ざしているかのように思えた。
そんな雰囲気だからこそ気になったのかも知れない。学生の頃から、誰からも好かれるような男性よりも、少し影のあるような人を好きになる傾向のあったなつみにとって、藤原という名前の男性は、気になってしまうほどだったのだ。
同じような雰囲気の男性は、それから何度か見たことはあったが、藤原さんと頭の中で重ねてしまうような人は一人もいなかった。この時初めて感じたのだが、最初に思い出さなかったのは、頭の中で重ねることができて初めて藤原さんのイメージがよみがえるのだ。寝ぼけた状態で思い出すことができるほど、藤原さんへの意識は記憶の浅いところにあったわけではない。それをいきなり引き出させた目の前の男性は、なつみにとって、
――ただものではない――
という意識にさせるだけの十分なものがあった。
さらに、
「ええ、私は藤原と言います」
と、言われてしまっては、しばしの間、過去と現在を意識が勝手に行き来しているような感覚に陥ったとしても、それは無理もないことだったに違いない。
「ここのロビーの奥に喫茶店があるので、そちらに行きませんか?」
そう言われて、なつみは改めてそこがホテルのロビーの奥に置いてあるソファーであることに気が付いた。
――眠くなるのも仕方のないことなんだわ――
と感じた。
藤原さんにそう言われて、彼のいう方を見ると確かに喫茶店があった。
だが、今日来たのは、清水さんに用事があったからではないか?
――最初は十時までどうやって時間を潰そうかと思っていたけど、考えてみれば、十時を過ぎたとしても、何んら問題はないんだわ。清水さんがここにいることに変わりはないんだから――
となつみは感じ、時計を見た。
このホテルに来たのは、九時少し前だった。あれからフロントに顔を出し、このソファーで睡魔に襲われ、夢を見てしまっていた。そこへ藤原さんが現れ、私を起こしてくれた。実際に目が覚めるまでには数分は掛かったことだろう。なつみの感覚としては、
――九時二十分くらいではないだろうか?
という思いが頭にあった。
しかし、実際に時計を見ていると、時刻の表示は、まだ九時を少し回ったくらいだった。思ったよりもその日は時間の経過が想像以上に遅かったようだ。
今までのなつみは、時間の感覚にさほど違いを感じたことはない。今回のように、倍近くの時間の違いをこんなに短時間で感じたというのは、本当に稀であった。
――まだ、ハッキリと目が覚めていないのかしら?
と思ったが、なるべく目を覚まさなければと思い、目の前の喫茶店の入り口を凝視していた。
フロアの端から端なので、少し距離はあるようだった。ロビーの奥の方に座っていたことで、少し暗めの雰囲気に慣れていたが、相対している喫茶店は、窓が広いようで、その向こうから差し込んでくる日差しに眩しさを感じていた。中で慌ただしく立ち回っているスタッフの女の子がシルエットに浮かんでいるようで、実際に大きく感じられるように見えた。
なつみが凝視しているのに気が付いたのか、藤原はしばらく声を掛けなかった。
その間、なつみは自分でも微動だにしていないように感じていたが、その様子は藤原にも分かっていたようだ。
なつみの肩が震えた。それは意識してではなく、たぶん、金縛りに遭っていた身体が、解き放たれた時に感じる反動のようなものだったに違いない。
立ち上がろうとしてすぐに立ち上がれなかったさっきの自分とは違い、肩が震えたのを感じたなつみは、急に身体が軽くなったのが分かった。まったく動かしていなかったのだから、身体が軽いか重たいかということはすぐには分からないはずなのに、その時にはすぐにピンと来たのだ。
バネが利いているかのように、一気に身体を起こしたなつみは、まるでロボットのような滑稽な動きになってしまった自分を一瞬恥かしいと感じた。だが、身体が軽いことで、勝手に自分の身体が動き出したような気がしてきたなつみは、藤原に勧められるまま、足は喫茶店に向かっていた。すぐ横のフロントを見ようと思っても、首が動かない。頭は正面だけを向いていたので、フロントを見ようとすると、視線だけを横に向けて、横目になるしかなかった。
作品名:セカンダリー・プレイス 作家名:森本晃次