短編集7(過去作品)
またしても菊の香りが鼻をついた。
先ほどまでの仄かな香りとは違い、今度は嗅覚を完全に刺激し、他の香りを遮断するに十分なほどである。感覚が麻痺し、コーヒーの香りを感じることができるかさえ、不安であった。
私が陽子さんに対して感じた思いが強ければ強いほど、菊の香りが強くなる。そう思い視線を菊の方に向けると、まったく同じタイミングで、陽子さんも菊の方へと視線を移すのだった。
その時の陽子さんの表情には寂しさとは別に、母親のような優しい目があり、菊の対して安心感を与えようとしているような思いがあったように見えるのは不思議であった。
私はさらに、菊がある出窓を見つめていた。
じっと見つめれば見つめるほど、一点に集中した菊にスポットライトが当たったかのように見え、そのまわりが次第に薄暗く感じてしまう。このまま眩暈を起こして倒れてしまうのではないかとさえ思うほど、まわりの景色がはっきりせず、菊の植木鉢だけが、くっきりと浮かび上がって見えるのだった。
試験勉強をしていた頃のことである。いつものように参考書に向かって目を落としていたのだが、一点を見つめていると、見つめた一文字以外が霞んで見えることがあった。視線を下の文字に移そうとしても目が動かないのである。
それではと、瞬きをしたが同じことで、見る見る視力が落ちていくであろうという想像通り、見ているその一文字すらはっきりしなくなっていった。
頭を上げ、視線をどこにも向けることなく、ゆっくりと首を回していくと次第に周りが見えてくるようになってくる。
――少し肩が凝ってるのかな――
実際、首を回しながら感じたことである。軽く肩をもんだりもしてみた。
だが、ある程度視力が戻ってきたと思った頃であろうか?
――何となく息苦しい――
深呼吸をしてみるが、治りそうにもない。
そんなことを感じている間に激しい頭痛に襲われた。息苦しいと思った時から、何となく予感めいたものがあったかも知れない。足が痙攣を起こす時など、予感があるのだが、その時に酷似している。
頭が脈を打っているような感覚であり、どうかすると麻痺してしまったように感じたりもする。
――まるで虫歯の痛みだ――
苦しい中で、そのことを感じた。
どうすることもできず、とりあえず安静にしながら深呼吸を繰り返すしかない私だったが、深呼吸が功を奏してか、数分で苦しみは治まるのである。
受験生時代には数回あり、友達に話すと同じような経験は、皆持っているということだった。いわゆる“職業病”のようなものなのだろう。
「大丈夫ですか?」
今までになかった表情が、陽子さんの顔に浮かんだ。曇りがちな表情は、私のことを真剣に心配してくれているのがよく分かり、何とか心配させまいと平静を装っていた。
そうすればするほど、今までなかった頭痛が私を襲う。それはいきなり襲ってきたものではなく、予感めいたものがあったはずなのだが、あまりにも唐突だった気がして、今までにない辛さを伴っていた。
いや、辛さが倍増した直接の原因は、陽子さんに対して辛い表情を見せてはいけないという思いが働いたため、意識以上に辛さを辛抱せねばならず、それが耐え難いものとなっていったのだ。
「あ、いや、大丈夫です」
大丈夫でないのは、陽子さんにも分かっているかも知れない。鏡があれば見てみたいくらいで、その表情はしばらく私の脳裏から離れることがないはずである。
指先が乾燥してきたかと思うと、それがすぐに痺れへと繋がり、掻いてもいない汗が滲んでいるような錯覚があった。それは試験勉強をしていた頃に感じた頭痛の予兆であり、あたかも襲い来る頭痛への恐怖心を煽っていた。
目の前がはっきりしなくなり、まるで瞳に無数のクモの巣が張ったかのように見える症状が治まりかけていた。
「いよいよ……」
言葉になったかどうか、定かではない。
喉がやたらと渇く、目の前のお冷を一気に飲み干すが、氷も完全に解けていなかったにもかかわらず、ほとんど冷たさなど感じることもなかった。
すかさず、お冷を入れてくれる陽子さんの表情までは確認できたが、周りがまるで夜になったかのようにみるみる暗くなり、色すら感じなくなってきた。遠近感がなくなってくると、今まで見えていた立体感のある三次元が、平面的な二次元へと変わっていく。
――これほどキツイのに、どうして冷静に状況が分かるのだろう――
いつも頭痛の時に感じている。
ひょっとして、自分の中にもう一人の自分がいて、苦しくなったり楽しくなったり喜怒哀楽のたびに表に現れ、いつも冷静な目でもう一人の自分を見つめているのではないだろうか。
今までにも同じようなことを考えたことはあったが、その都度“現実逃避”の自分が現れるという感覚があって、あまり信じていなかったのも事実である。
しかし、陽子さんが心配してこちらを見つめる目の奥に写っている自分は、苦しんでいる自分ではない気がしてきた。これほど冷静な顔ができるのかと思えるほどで、しかもそれは冷静に見ている方の自分の判断ではなく、苦しみの中から感じたことだ。
刺すような強い菊の香りが、私の鼻を貫く。鼻腔から脳天を貫く強い香りは、次第に思考力を麻痺させ、一緒に苦しみも和らげてくれているようだった。
それを感じると、陽子さんの表情が次第に穏やかに変ってくるように見えるから不思議だった。
何かを話そうとしているのは分かるのだが、それが言葉となって出てこない。口が何やらモゴモゴ動いているのを感じるのだが、声になっていないのだ。
いや、声になっているのかも知れないが、私が気付かないだけかも知れない。周りの音もおぼろげで、聞こえているのだが、深みがない。しいて言えば、言葉が“乾燥”していて、“重さ”がないという感じがする。
しかし、それでいて先ほどよりもさらに店内の喧騒とした雰囲気を感じるのはなぜだろうか。人が増えたわけでもない。先ほどまではさほど気にならなかった周りの雰囲気が、急にざわめきとともに気になり始めた。
規則的に奏でる心臓の鼓動が気になってくる。別に息苦しいとか、ドキドキする何かがあるとか、そういうことではない。規則正しいがゆえに気にならなかっただけで、静寂の中でとても気になってくる、時計の「コチコチ」という時を刻む音が耳鳴りの中で響いているのに似ているかも知れない。
――そういえば、あの時――
とても静かな時間を思い出した。
それは最初からの静けさではなく、一瞬前までの喧しさがあった上で訪れた静けさであり、明らかに喧騒とした余韻を耳の奥に残しながらの耳鳴りであった。
目の前に暖炉があり、それは赤レンガで築かれている。今は消えているが、部屋の暖かさから考えると、先ほどまで点いていたのかも知れない。
しかし感じるのはそれだけであった。
なぜ自分がそこにいるのか。耳の奥に残る喧騒とした雰囲気が何であるのか。一瞬にして理解することなどできるはずなかった。
指先の感覚がない。よく見ると、震えが止まらず、何かを持とうとしても、たぶんすべて落としてしまうに違いない。しかもさっきまで何かをしっかり握りしめていたのか、指を開こうとすると違和感を感じる。
作品名:短編集7(過去作品) 作家名:森本晃次