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短編集7(過去作品)

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 じっとその指先を見る。真っ赤に濡れた指先を見て一瞬びっくりしたが、それが血糊であることはすぐに分かった。後ろにひっくり返りそうな衝動を必死で耐えているのが分かったが、周りをキョロキョロ見回すことができたのは、まるで他人事のように感じていたからかも知れない。
 部屋は明らかに散らかっていた。テーブルや椅子はいかにも不自然な位置にあり、椅子の一つはひっくり返っていた。明らかに暴れた跡である。食器が床に落ち、食事が散乱していて、何よりも私の目を引いたのは、テーブルの向こうに人の足が見えたからである。
 寝転がって見えるその足は、もう二度と動くことはないと、私は知っている。恐る恐る近づいて覗き込むが、そこには果たして私の記憶を一気に呼び起こすものが横たわっていた。
 スカートが捲れ上がり、太もものあたりまで露になったその足から目が離せなくなっていた。うつ伏せになっているため、視線を移したその先の、臀部のふくらみが艶めかしくも懐かしい。
 私が知っているはずのその足は真っ白なはずなのに、黒く淀んで見えるのは、もう動くことがないと思っているからであろうか。暗闇であればあるほどその白さを堪能できていたはずなのに、まるで石のように冷たく硬い物体は、かなりの重さがあるに違いない。
 恐る恐るその物体に近づいてみる。
 頭の中が混乱している。しかし、そんな中、横たわっている足に触れてみたいという衝動に駆られるのだ。
 もっと近づきたい。近づいて触りたい。だが、顔を確認することをためらっている自分がいるのも事実である。
 手を伸ばせば触れることのできる距離までやってきた。私の視線は彼女の下半身に釘付けになっていた。いや、正確に言えば下半身を見ていたというより、視線をそこから上に移すことができなかった。
 遠い記憶がよみがえってくるのを感じていた。静寂の中で耳鳴りだけを感じていたのだが、その中に暖炉から、バチバチという音が聞こえてくる。
 すると、切ない思いが胸を焦がし、さらには淡い恋心が芽生えた頃の記憶が戻ってくる。淡い恋心が切なさに変わり、それが抑えられなくなり、やがてそれが成就する。
 目の前で横たわっている女性の顔が頭に浮かんできた。いつも微笑んでいた彼女の口元に浮かぶエクボ、それしか思い出せない。
 今うつ伏せになっている彼女の顔は断末魔で歪んでいるはずなのだ。見ようと思えば見ることができる。それを許さない私がいる。
 しかし、それでも潜在意識はどうやら違うようだ。自分の意志に反して首は回ろうとしている。視線も首の動きに逆らうことなく、彼女の顔を捉えようとしている。
 視線を移していく中で、床に転がっているワイングラスが目に付いた。別に意外な感覚はなく。
――そんなとこに転がっていたのか――
 という程度で、転がっていること自体は、周知のことだった。
 一瞬鉄分を含んだ嫌な匂いがした。しかもその匂いはキツく、つい最近感じたものであることに間違いなかった。
 フローリングの床が真っ赤に染まっている。鉄分を含んだ匂いとは、これのことで、しかも吐血であることは間違いなく、それがゆえにさらにキツイ匂いとなっているのだ。
 まだ凝固は始まっておらず、たった今起こった惨状である。
 しかもその向こうにもう一体同じようなものが転がっているのを私は知っている。
 いや私にしか分からないのだ。だが、私には、どうしてもそれを見ることは許されなかった。視線を向けることができないのである。
 少しずつ耳に音がよみがえってくる。
 しかし一番耳に残った音は、壁に掛けられた柱時計の音だった。三十分単位で音がなる時計なので、この静寂の中鳴り響くことへの気持ち悪さからか、ついつい時計に目が行ってしまう。
 時刻は夕方をとうに過ぎていて、表は真っ暗になっていた。
 しかし、私の記憶に真っ暗なその部屋はない。
 西日が激しく差し込んでいて、影が異様に長く感じられ、絶えずその影が不気味に揺れている場面ばかりが記憶にある。
 しかもその影は一体ではなく二体である。
男と女がもつれ合っている。絡み合っているといった方が正解であるが、その影の動きはまさにもつれ合っている。
その影がそのうち三対になっているのを私は気付いたであろうか? そこには間違いなく二人しかいなかったのだ。新しく加わったもう一つの影は、実在する人間のものではない。だが、間違いなく記憶の中にもう一体があった。
その時は、そんなことはもうどうでもよいことだった。二体だろうが、三体だろうが、死に行く私にとって関係のないことだったのだ。
 会社に勤めて十年、がんばってコツコツ勤めあげ、三十過ぎにして何とか築いてきた課長としてのポストと信頼、それが会社によって利用されたのだ。私の知らないところで進められていた汚職のプロジェクト、失敗した時のことまでしっかりとマニュアルができていたらしい。
 うまく煽て賺し、「飼ってきた」私を、人柱として全責任を転嫁し、会社はうまく生き残る……。そんなシナリオが実現してしまったのだ。
 しかも、私には会社の上司の奥さんとの不倫という、後ろめたいこともあり、どうすることもできなかった。
 彼女との逃避行の末、結局最後は心中……。
 ここまで会社のシナリオにはなかったであろうが、私一人どうなろうと会社の知ったことではないのだ。
 私と彼女は最後を山奥のバンガローに選んだ。ワインによる服毒心中である。
 最後に思い切り愛し合った後、二人でワインを飲み、もつれ合いながら、最後を過ごしたのだ。
 だが、その時に私は感じた。
――本当に私は死んだのであろうか――
 あまりにリアルな感覚に、“死”が信じられないのだ。
 ワインを飲んだその時だったであろうか? 強烈な花の匂いを感じた。薄れいく意識の中で私は過去のことが走馬灯のように駆け巡るものだと思っていた。しかし、思い出したのは大学時代に寄った喫茶店のことである。
 その時に感じた菊の香り、それが私の最後の記憶だった。
――さっきのもう一体の影は、その時の私だ――
 一瞬、そのことを感じたかと思うと、そこから先は思考の及ぶところではなくなっていた……。

「大丈夫ですか? 頭痛ですか?」
 私の顔を覗き込む陽子さんの顔が目の前にある。
 彼女は相変わらず私に満面の笑顔を浮かべ、
「あの菊が見えている人は、救われるらしいんですよ」
 と一言呟いた。
 私と同じように救われた人が過去にもいるだろう。
 あの時の上司の娘……、陽子さんを見ていると思い出す。いや、陽子さんの記憶があったから、不倫に走ったのかも知れない。
――もう一度人生をやり直しているのだろうか――
 そこまで考え、出窓に視線を向けた。強烈な西日が菊に当たっていて、そこから伸びる二体の影が蠢いていた。
 もちろん、それは私にしか見えるはずのないものであったが……。

                (  完  )

作品名:短編集7(過去作品) 作家名:森本晃次