短編集7(過去作品)
雨が降る直前というのを身体で感じることは容易なことだ。湿気が微妙に違ったり、アスファルトから靄ってくる湿気を帯びた匂いが独特のものだったりするからである。しかしそれが豪雨ともなると決してそうはいかない。風の強さが微妙に違っているのか、確かに雲の流れが速く、低い位置まで立ち込めていた時に豪雨になりやすいが、それだけではなかなか判断ができない。それをはっきりと「豪雨が来る」と言ってのけることができるのはその人の備わった能力なのだろう。
「しかも、どうも怯える理由の一つとして、豪雨の時に何やら女性の視線を感じるらしいんだ」
「いつもなのかい?」
「ああ、例の事故を目撃してかららしいんだけど、まわりに誰もいないのに視線を感じるんだそうだ。誰もいないのにどうして女性の視線って分かるのかって聞いたら、見えないのに顔が思い浮かぶらしい。しかもまったく知らない女性の顔なんだって」
「気落ち悪いね」
「ああ、でも今はどうなんだろう? 高校時代しか付き合いがないから、卒業してから会ってないので、その後のことは知らないよ。でもなんだろう? もうやつがこの世にいないようなきがするのは気のせいなのだろうか? そういえば死んだというような話を聞いたような気もする」
その話はそれで終わり、時計を見ると午後八時近くになっていた。家が遠いこともあって、呑んで帰る時も大体午後八時頃までと決めていて、まわりにも暗黙の了解があった。
「もうこんな時間だね」
「ああ、すまないね、気を遣ってもらって」
「いいよ、俺もちょうどいい具合に酔っ払ったので、そろそろ帰ることにするよ」
そう言って勘定を済ませると、お互い反対方向なので、店の前で別れた。空を見ると店に入るまで雲ひとつなかった青空だったのに、雲が立ち込めている。月が出ているのだが、流れの速い雲に見えたり隠れたりで、微妙な天気になっていた。
昼間の突き刺すような日差しの暑さとは違い、明らかに湿気を帯びた汗がへばりつくような暑さである。じっとしていても身体の奥から滲み出てくる汗を止めることなどできそうにもなかった。
今にも降り出しそうだと思っていたら、ポツッ冷たいものを鼻の頭に感じた。
「いかん、やはり来たか」
なぜ鼻の頭だったのかなどといつもであれば他愛もない考えが浮かぶのだが、今日はそんな考えを浮かぶまでもなく、空が一気に泣き出した。
人通りの多い横丁を往来していた人たちから黄色い声が聞こえた。悲鳴に近いもので、予報の晴れを信じて傘を持っている人が少なかったのだろう。今歩いている人はほとんどが女性だった。
――それも珍しいことだな――
そう思って見ていたが、その中で長い髪をなびかせて、軒下に避難している女性を見かけた。
――確か、どこかで――
一瞬分からなかった。それも仕方のないことで、シルエットとしてしか見ていない人の顔を勝手にこっちで想像していたからに他ならない。しかし目を細め、じっくりと見てみると、それが昨日公園で見かけた女性であることに気が付いた。
――昨日もこの角を曲がったんだったな――
じっと彼女を観察していると、自然とそちらに近づいていく自分に気が付いた。大胆といえば大胆、今まで気になる女性がいても簡単に近づくことのなかった自分に信じられないことだった。
「すごい雨ですね」
彼女はタオルハンカチを頭に当て、恨めしそうに空を見ていた。すぐに軒下に隠れたせいか、幸いにもほとんど濡れていない。
「ええ、いきなり降り出してびっくりしましたわ」
そう言って傘の半分で彼女を隠すと、
「ありがとうございます」
と彼女は頭を垂れた。
しかし一向に止む気配のない雨にどこか雨宿りを探していた私に、
「私、あの店に寄りますので、どうぞお構いなく。ありがとうございました」
そそくさと走り出すと五軒ほど先のスナックに向かっていた。私としてもずぶ濡れになる彼女を放っておくわけにもいかず、一緒に傘でかばいながら走り出した。
そんな私を彼女はどう思ったであろうか? スナックの軒先についた二人は息を整え、扉は私が開けた。
「せっかくだから、ご一緒しましょう」
私の方を見上げた彼女は一瞬戸惑いと見せたが、すぐに笑顔に戻ると、
「ええ、そうですわね」
と言って、先に扉をくぐった。
「いらっしゃい、佐和子ちゃん。あら、外は雨なの?」
「ええ、すごい雨。最近多いわね」
「珍しいわね。今日は男性とご一緒なのね」
「ええ、今そこで傘に入れていただいたの」
二人の会話から察するに、佐和子と呼ばれた彼女はかなりの常連である。そして男性を連れてくることはほとんどない。一人で来ることが多いのではと思ったのは、私の願望であった。
カウンターに座るやいなや、彼女の前にはウイスキーボトルが置かれた。「佐和子」という札が掛かっていて、その前には、しっかりとグラスが二つ用意されている。ママが手馴れた手つきで作ってくれ、無駄のないその動きを見ているだけでも退屈はしない。その間に言葉はなく、グラスや氷の音だけが響いていてそれも心地よかったりした。
彼女の横顔を見ていると、どこかで見たようなと思ったさっきのことを、思い出していた。
店の中はクーラーが効いていて、表の豪雨や湿気などまったく感じさせない。フロアーにはピアノが奏でるジャズが流れていて、それほど調度も低くなく適度な明るさが私には嬉しかった。
「なかなかいい店をご存知ですね」
「ええ、以前友達とよく来ていたんですよ」
私もすぐにこの店を気に入った。
去年まで付き合っていた女性とよくスナックへ行った。その店の雰囲気に似ていなくもない。その時の彼女が好きそうな店だ。
名前を祥子といい、学生時代からの長い付き合いだったのだが、去年急に私の前から姿を消した。今はどこで何をしているのだろう?
別れもあっけなかったような気がする。いかにも「青天の霹靂」であり、あまりのことにショックすら薄かったのである。何しろ、別れのシーンがほとんど記憶にないくらいだからである。
「好きな人ができた」
ただそれだけ告げると、呆然とする私の前から走り去り、次の日取ろうとした連絡にもまったくの応答なしだったのである。
しばらく放心状態が続いた。
元々躁鬱症の私は、見事にその型に嵌まってしまい、対人恐怖症を引き起こしてしまった。本当なら友達と話したりして気分転換を図るのだろうが、そんな気になれなかったあの時期は私にとって地獄だったに違いない。しかし今だからそう思うのであって、その時の精神状態は完全に「他人事」であった。
――そういえば祥子との出会いも、こんな感じではなかったか――
大学の同級生である祥子は、講義が終わって突然降り出した雨に傘を持っていなかったためどうすることもできず、雨宿りをしていたっけ。そこへすかさず差し出した傘に入った二人はまさしく「相合傘」を絵に描いていた。「相合傘」という言葉をどちらが言い出したか忘れてしまったが、その言葉に見せた笑顔で、お互いの気持ちが通じ合えた気がしたのを覚えている。
作品名:短編集7(過去作品) 作家名:森本晃次