短編集7(過去作品)
それにしてはあまりにもリアルな夢であった。夢を見ていたとして片付けられればどんなにいいか、とさえ感じている。
「しまった、時計を確認しておけばよかった」
時間にして少なくとも五分は経過していた気がしている。その間時計が動いていたかどうかの確認を怠ったことを後悔した。
だが、その時計もこの空間で正常に動いたかどうか疑わしいものだ。では、それならばと思い、私は自分の時計と壁に掛けてある時計を見比べてみることにした。
「やはり……」
私の時計より店内の時計の方が五分遅れている。私の時計は電車で移動するため正確に合わせているので間違いないはずで、その証拠に帰りは定時の電車を時計で確認しながら待っていたのだ。
「すいません、あの時計合ってますか?」
店員に尋ねた。
「ええ、合ってますよ」
「本当に?」
わざと疑ってみせた私に店員は、別の店員にも確認していたが、
「ええ、間違いないです」
と、同じ答えが返ってきた。
どうやら、私だけが五分時間が進んでしまったようだ。
私の頭は混乱した。進んではいけない時間を進んでしまったという思いが頭を巡る。根拠はないのだが、見てはいけないものを見てしまったのだ。
そんな思いをしたのはその時が最初で最後だった。だから余計にその日のことが夢ではなかったと思いたいのだが、どうもそうは簡単にいかないようだ。
確かに時間が私ともう一人、誰だかよく分からないが、その人と二人だけ進むなど考えられない。まして他の人は動かないだけで、しっかり目も開いていたにもかかわらず、万引きが行われたことに対して一切何もなかったように振舞っていた。ひょっとしてあの男を見たことすら、記憶にないのかも知れない。
しかしその考えが少し違うことを私が思い知ったのは、それからまもなくのことであった。
いつものように出社すると、私には近くの支店への出張が待っていた。最近システムが変ったことから、私の部署でも業務体系が大いに変わり、最初の頃などかなり戸惑ったものだった。そういうことから一気にシステム変更を行うのではなく、順次支店網を広げていこうというプロジェクトなのである。
つまり軌道に乗った支店の担当者が今度はインストラクターとして、時々支店を回り指導教育を行うものであり、自分のところの支店では私もそのメンバーの一人に入っていた。そういうこともあり、最近は日帰り出張が頻繁である。
前の日にまとめておいた今日行う指導要綱をカバンに入れ、さっそく会社を後にしようとしていた。
「向こうに行ったら十時から一時間、指導の時間を作ってもらってるから、それに遅れないように行ってくれ」
「はい、分かってます。十時ですね。どうもありがとうございます」
そういって私を送り出してくれた支店長は、これから赴く支店の支店長とは同期入社ということで気心の知れた仲らしい。
それだけに部下である私も支店長同士の心遣いに水を差すわけには行かず、時間厳守は必至の立場だった。
会社を出たのが九時少し前、会社の電話を使い時報を確認するくらいの念の入れ方だった。元々時間にはうるさいと言われるくらいの私なので、どちらかというと細かめに指示を出すタイプの支店長も、時間に関して私にうるさくいうことはない。
どちらも都会に位置する支店なので、車での移動はラッシュに遭ったりして却って時間が不特定となる可能性がある。移動はもっぱら電車を使うのだが、それも支店が駅に比較的近いところにあることからスムーズな移動ができる。
スムーズに行って現地まで約四十分くらいであろうか。余裕を持って出かけるのも私の性格だった。
定刻どおりに目的支店の最寄駅に到着した。
このまま目的支店へ向かってもよいのだが、もう一度資料に目を通すことにした。スムーズな時間運びをしないと、いつまで経っても自分の仕事ができないからである。特に出張に出かける時は、いつもそのことを心掛けるようにしている。
改札を抜けコンコースに下りると、こじんまりとした喫茶店がある。待ち合わせや時間調整に使われることが多いようで、カウンター席は結構サラリーマンで埋まっている。
注文したコーヒーをトレーに乗せ、いつものようにカウンター席へと運ぶ。床にはボストンバッグや旅行カバンが所狭しと置かれ、避けるように席に向かった。この光景を見ていると近い距離の日帰り出張であっても、かなり遠くへ出向いてきた気がするから不思議であった。
カウンター席からは表が見渡せ、ロータリーになった駅前広場が一望できる。いつも最初に書類に目を通してから、落ち着いた時間で表の風景を見ることにしている。どうせならあまり余計なことを考えたくないという気持ちから、一息ついたその時に、漠然と表を見ることにしている。
私はこの時間が好きである。
仕事中ではあるが、そんなことも忘れて一人になれる時間……。不思議とこの漠然とした時間を過ごしても、先ほど読み直した資料のことはしっかり覚えている。この時間はそんな私にとって都合のいい時間でもあるのだ。
タバコは吸わないので端の方にある禁煙席へと座る。どうしても喫煙者が多いのか禁煙席は場所を狭くとってある。
そのせいもあってか、常連客が多い時はいつも同じ席が空いているので、そこに座ることになる。そのため、毎回目の前に飛び込んでくる光景は同じ角度であるため、最初から想像ができる。しかも想像したとおりに私を迎えてくれるのである。
聳え立つビル群は太陽を背にうけ、影になって見える。じっと動かずそこに立ちはだかるビルはまるで凍りついたかのように見え、微動だにしないその姿はいつも目に焼きついたそのままである。
その中で、まるでアリが甘いものにでも群がるようにロータリーにあるバス停を中心に人の流れが上り下りと絶えない。人の波は活気に溢れ、ガラス越しではあるが革靴の乾いた音やしゃべり声などの喧騒とした雰囲気が伝わってきそうである。
まさしくそこは都会の駅としての活気を肌で感じることができる。
しかしそれもコーヒーを飲みながらの落ち着いた気分で見るから感じられることであって、果たしてあの中に入って感じる喧騒とした雰囲気とかなり違うものである。目を瞑ればおのずと浮かんでくる思いであった。
漠然と人の流れを見ているとはいえ、全体を漠然と見ているわけではない。一瞬であればただ流れを見ているだけで終わるなのだろうが、それがある程度まとまった時間ということになれば、それでは却って疲れてしまう。
そういう時はいつも誰か一人に的を絞って見ていることが多く、その人が視界から消えれば次の人へと移っていく。
しかもターゲットを決めるのは無意識であって、たぶん最初に目に入った人ではないかというだけの感覚でしかない。これは私に限ったことではなく、他の人にも言えることではないかと最近感じるようになった。
目を細め、一人の人に注目している時、自然と顎が上がって首を少し傾げ気味に見ているであろうことが想像できる。もし自分の注目している人が私の視線を感じたとしてこちらを見たとしても、まさか私に見つめられているなど夢にも思わないだろうと感じるほどである。
作品名:短編集7(過去作品) 作家名:森本晃次