時空を超えた探し物
この言葉を由香の口から言われれば、悟は立ち直れないかも知れないと思った。しかし、その可能性は限りなく薄い。由香から直接聞くことはできないと思っていた。由香が自分の前から消えてしまったあの日、バーの存在も消えてしまった。目の前から消えてしまったバーがどうなってしまったのか、怖くて確認できなかったのは、由香が自分の前から消えてしまったことに対して感覚がマヒしてしまったことを正当化させるためには必要なことだったのだ。
バーの存在を消したのは、悟だけのことだっ。あれからバーがあったあの通りを通ることはなくなったからだ。もし、そのバーが同じ場所に存在していれば、きっと悟は立ち寄るに違いない。自分で分かっているつもりだ。そこに現れるはずがないと思っている由香を待つことになるというのも分かっていることだった。
――それこそ、その日から抜けられなくなるんじゃないだろうか?
もう一人の自分の存在を意識しながら、同じ日を永遠に繰り返している自分を想像することはできない。想像することはできないくせに、展開は他にはないと思うのだった。
悟は、自分では執念深い性格だとは思っていなかったが、三十代の頃から、
「意外と君は根に持つところがあるよな:
と、同僚から言われたことがあった。
会社では、あまり同僚と話すことがなくなったのはその頃からのことで、それまではちょくちょく仕事が終わって一緒に呑みに行ったりしていたが、数人で呑みに行っても、いつも他人の会話に入り込むことができず、一人浮いた存在になっていた。
それも慣れからなのか、誘われて断ることを知らない悟は、いつも孤独だった。しかし、孤独も慣れてしまうと、さほどでもなかった。ただ、
――一体何が楽しいんだ?
と、まわりが浮かれていることに対して、絶えず冷めた目しか持っていなかった自分がどんな表情をしているのか、想像することは難しかった。
そんな時、無理して自分冷めた目を想像することはしなかった。その場の雰囲気に流されるだけの人間になってしまっていることを分かってはいたが、だからそれがいいことなのか悪いことなのか分からない。そもそも善悪で片づけられる問題でもないと思っていたのだ。
一人で浮いてしまっているのだから、放っておいてくれればいいのに、急に話しかけてくる輩もいた。そんな連中を適当にいなしていたが、さすがに誰が聞いても失礼なことを言われると、ショックは隠せない。
しかも、その言葉が発せられた時、その場は凍り付いたように固まってしまった。言葉を発した方も、ばつの悪そうにしていたが、すでに遅く、まわりの冷めた目は、その男に注がれていた。
「何だよ」
と、言葉に出して言いたいのだろうが、言葉に出すことはなかった。まわりの視線の冷たさに、自分んp発言がどれほど愚かなことだったのかということに気が付いたようだが、そういう軽い気持ちで言葉に出すやつに限って、まわりの視線には敏感だったりする。
追い詰められた表情は、喉の渇きを呼び、焦りながら視線は悟を捉えていた。
「助けてくれ」
目はそう言っている。悟だけがその時、この男に冷めた視線を浴びせなかったのだろう。すでに焦りから前後不覚の状態に陥っているこの男は、冷静な判断力は皆無のようだった。自分が傷つけたであろう相手に対して、助けを請うなど普通の精神状態ではありえないことだろう。
完全に立場関係は逆転したのだから、仕返しはし放題だったのだろうが、悟はそんな気にはならなかった。
――明日は我が身――
という思いもあったのだろうが、それ以上に目の前にいるこんな男と少しでも関わっていることに嫌悪を感じていたのだ。
――これ以上、この男を意識すると、俺は自己嫌悪に陥ってしまう――
と思った。
自己嫌悪に陥ると、下手をすれば、そのまま鬱状態に入り込む危険性がある。少なくともこの時の雰囲気は、鬱状態を引き起こすには十分な可能性を秘めていたような気がしたのだ。
悟は、その時から人を冷静な目で見るようになり、相手の視線にまずは気を付けるようにした。
――視線だけを見ていれば、その人の考えや、それからのその人との関係を垣間見ることができる――
とまで思っていた。
由香に感じた冷めた視線、それはその時から以降、
――一度入った亀裂が修復されることはない――
と思わせた。
一度、距離を取ったからと言って同じことなのかも知れないが、しばらく距離を取ってもう一度視線を感じたいと思ったのは、それまでの由香との会話が忘れられないほどだったからだ。
――この人が、こんな冷めた目をするなんて――
信じられない気持ちでいっぱいで、その時のショックは、だいぶ後になってからでも思い出せるものだった。
しかし、由香に対してのハッキリとした記憶は、その時の思いだけだった。
――もっと仲良くなりたい――
と思った知り合った頃、
――これ以上関わりたくない――
と思ったショックの後の心境。
そのどちらも意識はしているのに、その時の心境を思い出すことはできない。感覚で思い出すことができなければいくら記憶が思い出させても、それが本当に自分の記憶から引き出したものなのか怪しいものだった。
悟は、自分が根に持つ性格だと言われた時のショックは、その言葉を言われたからではなかった。
それまで意識していなかったはずの、
――根に持つ性格――
ということ、言われてから意識するようになったのは仕方がないことなのかも知れないが、本当に根に持つようになってしまったことは、自分にとって不本意なことだった。
――思ってもみなかった展開――
いきなりが多い悟にとっても、青天の霹靂だった。
ただ、根に持つというのがどういうことなのかというのを、人から言われるまで意識していなかった。
――どこからどこまでを根に持つというのだろう?
根に持つということを、範囲で考えようとしていた。
漠然としてしか考えていなかったことに対して、範囲で考えようとするということは、より具体的な感覚であり、さらには真剣に考えようという姿勢の問題でもあるように思えた。
若い頃は、漠然と考えたとしても、何かの結論が早い段階で得られたであろう。だが、それが本当にゴールだったのかどうか分からない。どうしても、最初に見つけた結論を、本当の結論だと思い込むのは無理のないことで、若いだけに、猪突猛進にもなりがちであった。
――物事には、段階というものがある――
ということに気が付いたのは、かなり後になってからのこと。つまりは、それだけ年齢を重ねたということだ。経験がそう感じさせたのか、それとも年齢を重ねたことで感じるようになったのか、そのどちらもが微妙に絡み合うことが大切だと最近では思うようになった。
その頃から、気に入ったものであれば、音楽でもビデオでも、何度も繰り返して見返したりするようになった。若い頃はそんなことはなかったのだが、それがなぜなのか、考えたこともなかった。ただ、同じことを繰り返すようになってから、
――時間を無駄使いしているように思っていたんじゃないのかな?
と感じるようになった。