短編集6(過去作品)
私がゆりえだと思っていた女性、似ても似つかぬその女性、最初に感じたのは自分が好きになりそうな女性だということだった。そしてそう感じると、初めて見た顔ではないように思え、遠い過去の記憶を無意識に引っ張り出そうと試みる自分に気がついた。
身体を起こしてでも顔を確認しようとしたのはそのためで、決してゆりえではなくなっていたことへの薄気味悪さからではなかった。
だが、そのことは自分の中で納得した上でのことだったような気がする。潜在意識の成せる業なのか、自分の意識の中に少しでもあったことだと感じた瞬間に、現れたのが目の前に広がった鏡だったのかも知れない。
すべてが潜在意識の中で繰り広げられる。まるですべてのストーリーを把握していたかのごとく、夢から醒めたのだ。夢というのは見ている本人にとっては過酷なもので、見ている時は本能だと分かっていながら、醒めていくにしたがって、本人の意思に逆らって、記憶の奥に封印されてしまうものなのだ。
それにしても鏡に写った男、あれは誰だったのだろう?
まるで見たことのない人間だった。
それにしても驚いたのは、その時の男の表情である。
カッと見開いた目、奥歯で何かをかみ締めていて、唇はキュッと真一文字に結ばれていた。私の方をじっと睨んでいるのだが、視線はあらぬ方向を向き、焦点すら合っていないように見えた。
最初に感じたのは違っていた。女性がこの世のものではないことが分かって、目の前に現れた男性、反射的に男に殺されたのではないかと感じた。カッと見開いた目が女性に注がれているのを感じたからである。
だが、真っ黒に感じたその顔色が次第に色抜きされるように白く変わっていくのを感じると、さすがに様子の違いを悟った。何しろ最初は、
――私も殺されるのでは――
と、思ったくらいである。
――断末魔の表情――
よくよく見るとその血色がなくなりかけた表情も瞳が赤くなってくるのが見えた。次第に赤みを帯びてくるような表情に、真一文字に結ばれた唇の横から零れるような頬を伝う一筋の鮮血を見ることができる。
気にして見ていないと最初は何か分からないほど細い線だった。しかし、一度確認できると、すでに唇を真一文字に結ぶことが不可能なほど自然と開きかかった唇の間から、流れ出る鮮血がはっきりと分かる。男がむせるたび、口の奥からドロッとした吐血が迸る。
「おや?」
怖くてまともに見ていられないほど体中が震えているにもかかわらず、意外と頭の中は冷静にこの状況を把握していた。元々夢だと認識しているからであろうが、この状況の中、ある疑問が私の中にあった。
――最初と表情が変わっていない――
死を目の前にした人など、そうそう見ることはできないだろう。しかも服毒で苦しんでいる姿などテレビドラマのシーンでしか見れないはずである。そんな時でも俳優は何とかリアルにと演技するので、本来ならそれがよみがえってきてしかるべきである。
それにしても目を逸らさずによく見ることができたものだ。もっとも男のカッと見開いた視線にかなしばりに遭い、逃れられなくなったというのも事実であるが、冷静に見ることができるようになった自分にとにかく驚いた。
夢から醒めても襲いかかられそうな表情と、断末魔の形相が交互によみがえり、瞼の奥に繰り返し映し出される感覚があった。
目覚めはあまりよい方ではない。
目覚ましを掛けずとも時間が来れば勝手に目を開くことが多いが、目が開くというだけではっきりと目が覚めるわけではない。そういう意味で神経質だと思っている私は、その日も予定していた朝六時半の少し前に目を覚ますことができた。
早く目を覚ましたからといって別にすることはない。
最初にテレビをつけるという行動から始まり、コーヒーは日課になっているので、顔を洗いながらコーヒーの落ちるのを待っている。そうすると自然と部屋の中にコーヒーの香ばしい香りが漂ってきて、私にとっての朝が始まるのだ。
相変わらず朝の番組は活気があってそれなりに好きだ。各放送局で似たり寄ったりの番組であるが、それでも何とかして個性を出そうと躍起になっている努力は窺える。しかし悲しいかな、見ている私には無駄な努力に思えてくるのだが、他の人はどう感じているのだろう。とりあえず男としての私は女性キャスターで、見る番組を決めている。
「おはようございます」
朝なのだからキーンと来るくらい高い声のキャスターが私にはお気に入りで、ある意味その日の活性剤となっていると言っても過言ではない。
いつもなら世界情勢などの話にはそれなりの興味を持つが、事件関係はそれほど大きなものでなければ、意外と覚えていない。ワイドショー自体あまり好きでない私は、事実に対し、各社それぞれの偏見を持ちながらの報道に見えて仕方がないからだ。
だが、その日は少し違っていた。
「昨夜、○○銀行中央支店に押し入った二人組みの男は、現金……」
このニュースがトップだったのだが、
「あれ? これってどこかで聞いたような気がするが……」
昨日のニュース?
直感でそう感じた。
しかしそれは一瞬で、どこかで聞いたような気がする、というだけに留まった。確かに毎日同じような事件が起きていて、銀行名が違うだけなら昨日もあったかも知れない。何しろいつも報道ニュースは聞き流しているので、ピンと来なくても仕方がない。
それにしても漠然と見ているはずのニュースに敏感に反応するというのも、おかしなものだ。そのたびにさっきまで見ていた夢のことが気になって、いつもの朝の一連の作業が止まってしまっていることに急に気がついたりする。
昨日の夢?
どこまで覚えているのだろう?
夢の内容というよりもそっちの方が気になってしまう。
そんなこんなでニュースの時間は終わっていて、特集コーナーに番組が変わっていた。気がつけばすでに午後八時を回っていて、こんなにのんびりできるのも、今日が休みであることを自分で把握しているからであった。まだそれだけの意識は、しっかりと残っている。
この間の祭日に休日出勤した。当番という名目だったのですることもなく、まあ、することがあっても集中してできることもあり、その後はボケッとした時間を過ごしていたに違いない。何しろ電話もなく、まったく静かな事務所で、時計の音だけが響いていた。
本当はこんな時間の過ごし方ほど嫌なものはなかった。
目的なくただ時間を潰すだけ、しかもたった一人で寂しい時間を過ごさなければならず、これほど時間を長く感じることはなかったからだ。
しかし、それも最近までのことだった。
今は前もって本を買ってきているので、それを読む時間に当てることができる。今まで感じたことのない「自分の時間」をふんだんに使えることがこれほど有意義なことだったなど、まったく知らなかった。一番苦痛な時間が「自由な時間」として私の中で生まれ変わったのだ。
ただ、しいて言えば、その時に読んだ本の内容を後になって覚えていないことが少し気にはなっていた。記憶力の急激な低下が最近気になっては来ている。
作品名:短編集6(過去作品) 作家名:森本晃次