短編集6(過去作品)
彼女とする会話にそんな無理はなく、違和感など感じられない。確かに熱弁をふるっていて他の人から見れば若干の違和感はあるかも知れないが、当事者二人は独自の世界を作っていて、その中での会話はそれなりに楽しいものだった。
初めて彼女の微笑みを見た。
最初の印象が少し冷たげに見えたこともあってか、私にはその時の顔が「天使の微笑」に見えて仕方がない。彼女に対しドキっとしたものを感じたとすれば、それが最初だったであろう。
――今日初めて会った人のような気がしない。昔からずっと知り合いで、いつも同じような話題に花を咲かせていた――
という気がしてくるから不思議だった。
「この店にはちょくちょく来られるのですか?」
私が一番気になっていたところだった。
「ええ、毎日とまでいきませんけど、ほとんど顔を出してますね」
「同じ時間帯にここにいたことってあるのかな?」
私の一言にマスターが反応した。
「いえ、ないと思いますよ。いつも少しずつ時間がずれてますね。二人とも大体いつもここにいる時間が決まってるでしょう?」
マスターの言うとおり、私は決まっている。そしてゆりえの現れる時間帯を聞くと、どうやら私が帰って少ししてからだという。その時間帯というのもタッチの差らしく、今までお互い顔を合わさなかったことがマスターにとって不思議なことだったようだ。
「まるで判で押したみたいだったですよ。だからお二人が顔を会わせる日がいつ来るか、密かに期待していたんですけどね」
マスターはニコニコしている。
好奇心もあるのだろうが、こうやって二人が並んでいる姿を見て、本当に微笑ましく思ってくれているであろうことを私は信じて疑わない。
マスターは続ける。
「二人が座る席も、いつもそこですよね。同じカウンターに座りながら、時間帯が違うとはいえ、隣同士ってのも一度会わせてみたかった理由の一つかも知れません」
「へぇ、そうなんですか」
私が応えると同時に彼女も頷き、相槌を打っていた。
どうやら絶対に同じ席ではないらしい。
「しかもですね。お二人がここの店の常連になられたのも、ほぼ同じ時期だったんですよ」
思わずお互いの顔を見直していた。そんな二人の顔をそれぞれ覗き込みながら、してやったりの表情を浮かべるマスターは実に楽しそうである。
そういえば私がここの常連になり始めたのはいつ頃のことだったのだろう?
あれは暑い頃だったような気がする。そうそう、ちょうどあれから一年が経ったのだ。
私が来る時間帯はあまり人がいない。そんな時間帯を狙ってくるわけではないが、もしその時間帯に騒がしいようであれば、私はこの店の常連になどなっていないだろう。
私がこの店を利用するのは、「ゆとりの時間」を持ちたかったからだ。贅沢な時間の使い方がしたく、ギスギスした生活からの現実逃避に他ならないかも知れない。普段と違った時間の使い方をしたかったのだ。
第一の目的は読書だった。学生時代まではそれほどでもなかったが、社会人になってから自分なりに集中しないと読書ができなくなった。まわりが少しでもうるさいと、どうしても気になってしまい、読書どころではない。会社でのストレスを溜めてしまうからだろうと最近思うようになった。
会社でのストレス、それはいうまでもなく人間関係である。大声で罵声を飛ばす上司もいれば、穏やかな口調の中に棘を持たせる人もいる。どちらが余計にストレスが溜まるのかは分からないが、どんな人がいるか分からない企業を取り巻く社会、ストレスが溜まらないはずがない。
そんな私のストレスを解消してくれたのは、学生時代から少しずつ続けていた読書だった。それほどストレスを溜めることのない学生時代は、それこそ暇で仕方のない時しか開くことのなかった本だったが、今では日課になってしまった。
思わず頷いてしまうようなことが書いてある。
そう思うと読書がやめられなくなった。
学生時代に味わうことのなかった実社会の荒波は、そのまま私を本の世界に誘いでくれる。読みながら頷いている自分に、何度ハッと気がついたことだろう。気がつけば自分を主人公にダブらせて読んでいたことも、一度や二度ではない。
そんな私にマスターが話しかけてくることはなかった。時々どんな本を読んでいるのかが気になるのか、覗き込んでいるのを感じることはあったが、決して邪魔するようなことはない。さすがにマスターは紳士である。
そんなマスターも仕事の合間を見て本を読むことが多かった。爽やかに生やしている、まるで山男のような髭の雰囲気からは想像できないが、どうやら学生時代は文学青年だったようだ。マスターの話を聞いているとミステリーから恋愛小説まで幅広く、部屋にある本棚にところ狭しと並んでいるらしい。
私はそんなマスターの人柄が好きである。店の雰囲気もマスターの感性の成せる業で、本当にいい場所を見つけたものだ。
その日ゆりえとそこまで話したかどうか覚えていないが、少なくともお互いに同じ感性を持ち合わせているということだけは納得したはずだった。
ゆりえは大学生である。
喫茶「スワン」は彼女の通っている大学からそれほど近いところに位置しているわけではない。しかも大学前の駅とは反対方向にあたる住宅街へ向かっているため、知っている人は少ないはずである。まして住宅街ということで学生向けのコーポやマンションも少なく、それほど学生をこの店で見かけたことはない。
確かに車を利用している人たちは来るだろう。しかしそれは夜中が多いような気がするが、それにしても店の雰囲気から言って、騒がしくできる感じではなく、それを考えると学生はあまりいないのかも知れない。
「ええ、確かにあまり学生は多くないですね。夜になると数人来ることもありますけど、騒げないと思うのか、一度来た人がまた来るってことはあまりないですね」
それが、一度聞いた時にマスターから返ってきた答えだった。
「どこに住んでるんですか?」
思い切ってゆりえに聞いてみた。
「それほど近くはないですよ。でも、店の雰囲気が好きなんですよ。それに、実は私この店を見つけたのは本当に偶然だったんですよ」
思わず私は身を乗り出すように次の話を待ち受けた。
「あまりこのあたりに来ることはなかったですし、ここに喫茶店があるなど知らなかったんですけど、何て言えばいいのか、気がつけばこのあたりにいて、思わず店に入ってしまったって感じですか」
その話を聞いてマスターがニコニコしながら私を見つめた。私も思わずマスターと顔を見合わせたが、自分は何でも知っていると言わんばかりに何度も頷きながら、
「うんうん、吉岡くんが初めて来た時と同じような感じだったよ」
とマスターが話してくれた。
マスターにはことあるごとにその話をしていた。
「会社の帰りに気がつけばこの道を歩いていたんですよ。まるでこの店に呼ばれたような気がしましたね」
何度この言葉をマスターに言ったことだろう。そのたびにマスターは、
「いやいや、この店にやってきて常連になられた方は皆そうおっしゃいますね。どうやらこの店にはそんな魔力のようなものがあるのかも知れませんよ」
「へぇ、私だけではないんですか?」
作品名:短編集6(過去作品) 作家名:森本晃次