柿の木の秘密
自分でも感じたことのない胸騒ぎ、それを感じると、今まで老人だけが無表情で、何も考えていないように見えていたと思っていたのだが、実際にはこの自分までもが、感情がなく、まわりから見れば無表情だったのではないかと感じさせた。
このことは二つのことを暗示している。
「老人は何も考えていないと思っていたが、ひょっとすると自分が考えていたように、絶えず発想を膨らませていたのかも知れない」
ということ、そして、
「感情を見せない無表情なんて、存在しないのではないか」
という二つのことだった。
一つ目の発想であるが、これは、途中で路線の変わる発想ではない。一つの発想が浮かんでくれば、何かの結論が出るまでその発想がやむことはない。それが無表情から作り出される発想の行き着く先である。
老人が見せた表情は、元々老人を知っている人が見れば、
「何だ。いつもの表情に戻ったじゃないか」
と言われるものなのかも知れない。
しかし、武明が老人を知ったのは、ここ数年のことである。それ以前の長い年月を知らないことに臆してしまいそうになったが、ここ数年でも、今まで彼を知っている人に負けず劣らずで観察してきたという慈父があった。
今までなら過去を知らないことが引け目になっていたが、今回の老人への観察に関しては、引け目を追うことなどまったくないと思っていた。
それから数日が経ってからのことだった。
毎日のように縁側に姿を見せていた老人が、プッツリと姿を見せなくなった。別の時間帯にも姿を見せるわけでもなく、どこかに出かけている様子も感じられない。なぜなら、縁側を開けっ放しにしているからだ。戸締りもせずに出かけるのは、武明には考えられないことだった。
老人の姿を見なくなって一週間が過ぎた頃、武明が次第に老人への興味が薄れてきたちょうどその頃だっただろうか、ふいに老人が一人の紳士と若い女性を伴って戻ってきた。
縁側から見える和室で、三人は話をしていた。
紳士の方は、グレーのスーツにネクタイをしていて、雰囲気は公務員という感じだった。自分も下手な企業などに入らずに大学時代にもう少し勉強して公務員を目指していればよかったと思ったこともあり、公務員に対しては敏感に反応した。
その男は、老人と女性の間に立って、一人でいろいろ説明をしている。
老人は男の話をしっかりと聞こうとしているようだが、女の方は、老人の方ばかり見ている。老人は彼女の視線に気づいていないのか、相変わらずの無表情だった。
一時間ほど、男の説明があった。
「それでは、綾乃さん。もろもろよろしくお願いします」
と言って、男は女に笑顔で指示し、そのままかばんを持って帰っていった。女は取り残された形になったが、男の最後の言葉から見て、どうやら、彼女はヘルパーのような仕事なのかも知れないと思った。
まるで保険の外交員のようなビジネススーツに身を包んでいた彼女が、少しすると、エプロン姿という、先ほどからは想像もできないような姿になって、再度現れた。老人はそれでも無表情だったが、武明は遠くから見ているくせに、その変貌に興奮すら覚えていた。
「綺麗というよりもかわいいという感じの女性かな?」
ただ、スリムな身体の線は、清楚な雰囲気を醸し出していて、武明の中で、
「ヘルパーというのは、こういう女性が一番似合うんだ」
と思っていた雰囲気そのままだった。
――あんな女性がそばにいてくれれば、引き篭もりになんかならなかったのに――
言い訳にしかならない気持ちは決して口に出してはならないと思いながら、思ったことすら、すぐに忘れてしまおうと考えたほどだった。
綾乃と呼ばれたその女性は、老人に小声で声を掛けているが、老人には一度だけでは聞こえないようだ。本当に年齢から耳が遠くなっているのか、それとも、意地悪をして聞こえないふりをしているのか分からない。しかし、ヘルパーを雇うほどの人なのだから、耳が遠くなっていると思っても、仕方がないだろう。
ただ、その思いが微妙に変わってきたのは、それから数日が過ぎてからのことだった。それまで引き篭もりだった武明だが、綾乃が出かける様子が見えた時、自分も表に出るようになった。
親は死んでしまったので、別に表に出るのに、なんら障害があるわけではなかった。それなのに、一度引き篭もってしまうと、何かのきっかけがないと出かけることはない。元々親がいる頃からの引き篭もりで、親が死んでから自由になる機会があったはずなのに、その機会を逃してしまったことで、親がいる頃よりももっと引き篭もりがひどくなっていたのだ。
それでも、綾乃を追いかけるのは、まるで自分がストーカーになっているかのようで、それが快感だった。
別に綾乃のことが好きで好きで溜まらないわけではない。普通であれば、そこまで好きになった相手でないと、ストーカー行為に至ることはないだろう。ただ追いかけているだけで犯罪なのだ。そのことは武明にも十分に分かっていた。
しかし、ストーカーを訴えるのは親告罪である。彼女が自分からストーカー被害を訴えない限り、警察が動くことはない。そして武明は彼女が自分から訴えることはないと思っているのだ。
綾乃は、近くのスーパーでいつも買い物をしていた。そのうちにスーパーの帰りにあるアーケードで、生鮮品や惣菜を買うようになった。
スーパーで買い物をしている時の綾乃は、まったくの無表情で、まるで老人が乗り移ったかのようで、追いかけていても、
「このままだと、すぐに彼女に飽きてしまう」
という危惧を抱くようになっていた。
しかし、アーケードに顔を出すようになってからの彼女は、店の人に対してだけ、笑顔を向けるようになった。その表情は実にあどけなく、清楚が彼女のアピールポイントだと思っていたのに、こんなにあどけない表情をされてしまうと、違った感情が浮かび上がってくるようで、それはそれでゾクゾクしたものだった。
清楚なイメージを感じている時は、
――そばにいても、近づきにくい雰囲気を醸し出している――
と思っていた。
それなのに、あどけない雰囲気を見せられてしまうと、どこにでもいる普通の女の子に見えて、今度は、
――近づけば触ることができるかも知れない――
と思うように感じられたのだ。
気分は、それまでよりもさらにストーカーのような気持ちになってきた。
大人の女を追いかけている気持ちが、いつの間にか、少女、いや、幼女に近い感覚さえも抱かせる綾乃に、自分の中にあるロリータの血が沸きあがってくるのを感じていた。
そういえば、高校生の頃、中学生の女の子が気になって仕方がないことがあった。さすがに小学生の女の子にまでは目がいかなかったが、成長期を前にした女の子が気になって仕方がないのだ。
成長期というのは、あっという間に少女をオンナに変えてしまう。オンナに変わってしまうと、武明の興味は薄れてしまう。だから、一人の女の子への興味を持つ期間は、いつも限られていた。
――俺は一人の女の子をずっと好きでいられないのかな?
と、悩んだほどだった。