柿の木の秘密
「バカとハサミは使いよう」
と言われるが、そんな異常性格の武明が双眼鏡のようなおもちゃを手にしたら、そこから変質的な相乗効果が生まれ、それが小説のネタになればいいのあろうが、果たしてそれだけで済むだろうか?
目の前にはおあつらい向けに、毎日同じ時間に何もない庭を眺めているだけの老人という格好の被写体がいるではないか。何かハプニングが起こらないか、別に双眼鏡で覗かなければいけないほど遠いわけではないのに、武明はわくわくしながら双眼鏡を覗いた。
双眼鏡を覗いていると、全体が見えるわけではない、一部だけが拡大されて見えるのであって、何かの妄想を抱くのであれば、全体が見える方が発想が浮かんでくるに決まっている。それなのに、なぜわざわざ双眼鏡に両目を当てなければいけないのか? その答えは、
――見えないところにこそあるんだ――
という思いがあるからだった。
双眼鏡には両目を当てるところがあるのは周知のことだが、目を当てていると、両方の目で見ているような感覚にはならない。目の焦点を合わせることで、その感覚をマヒさせ、通常に見えるようにしているのだ。
そんなことを考えていると、顔のパーツには二つあるものがほとんどである。
目、耳、鼻の穴、口以外は二つあるのに、あまり意識することはない。考えてみれば不思議だ。人間はそうなっていることに疑問を感じず、無意識に当たり前のこととして受け入れていることが多い。それだけ、考えて作られているということなのだろうが、逆に言えば、発想が乏しいともいえるのではないだろうか。
その時の武明は、そんなことを考えながら双眼鏡を覗いていた。普段なら絶対に考えないようなことを考えるようになったことも、自分が異常性格なのだと思うようになった理由の一つだと思うようになっていた。
隣の庭には、何もなくなったといったが、まったくの更地ではなかった。縁側から一番遠いところに一本の木が植わっている。最初は何の木なのか、まったく気にもしていなかったが、秋になるとオレンジ色の実が成っているのを見ると、それが柿の木であることは一目瞭然だった。
双眼鏡で覗くようになったのは最近のことだったが、隣の庭への意識はかなり前からあった。昨年の秋に柿の実がなっているのを確認し、翌日にはすべてがなくなっているのを見ると、武明が知らない間に、老人が刈り取ったものに違いない。
「それにしてもいつの間に」
と思ってはいたが、そこはあまり深く考えていなかった。
毎日ボーっとして庭を見ている決まった時間以外は、それほど隣の庭を気にしているわけではないからだった。
双眼鏡を覗くようになったのは、全体を漠然と見ていることに飽きたというのも一つだが、それよりも一箇所にだけ視線を浴びせることで、一点に意識を集中させているつもりでも、見えない部分が気になっている自分が、いかに想像力を膨らませるかということにワクワクしていたからだ。普段は基本的に老人だけを見ているのだが、老人をたまに見失いことがあった。最初の頃はレンズから目を離し、老人の姿を認めてから、改めてレンズに目を当てていたのだが、途中からはレンズから目を離すことなく、ひたすら見えないまわりを探すことに快感を覚えていた。
もし、これが断崖絶壁に架かったつり橋の上に自分がいたとして、まわりを濃い霧に包まれた状態で、どちらが前か分からない時、動くべきかじっとしているべきかの究極の選択に追い込まれているわけではないので、たかが双眼鏡を覗いているだけの差し迫った危機があるわけではない状況で、ワクワクすることができるのだ。これを快感と言わず、何というのだろう。
武明は、老人がいつも座っている縁側の位置と、木が生えている位置だけを最初に確認し、いつでも双眼鏡を持っていけるようにしながら、いつも老人を追いかけていたのだ。
庭を見ている時の老人の表情は、まったくの無表情である。人によっては、
「お釈迦様のようなふくよかな表情」
と言うかも知れないが、武明には無表情にしか感じられなかった。
武明の無表情という言葉の定義は、
「相手に、感情を一切想像させることのできない威圧感のある表情」
のことだった。
威圧感を与えるのは、そこに感情があるからであろう。感情のない威圧感というのは、ある意味矛盾した表情のはずなのに、それを武明は、敢えて無表情と呼ぶ。
「庭の柿の木とその無表情は連動しているかのようだ」
と、老人に表情があるのなら、柿の木にだって表情を感じることができるのではないかと思えるほどだった。
だから、人によって老人の表情はさまざまに感じられるように思えた。
「お釈迦様のようなふくよかな感じ」
であったり、
「相手が誰かを想像させないようにしているが、明らかに誰かに対して恨みを感じさせる表情」
であったりするのではないだろうか。
武明のように、威圧感を感じる人もいるだろうが、そのどれもが、自分を写す鏡であり、根底には顔を見ている本人の性格がそこには反映されているのかも知れない。
息子夫婦がいなくなってから、老人の表情には威圧感がずっと含まれていた。息子夫婦がいる時は、なるべく感情を表に出さないようにしていたのであろう。同じ時間に縁側から庭を見ている行動は、息子夫婦がいたことからのことだったからだ。
その時の表情には、感情はまったくなかった。他の人から見れば、
「これこそ、無表情というんじゃないかしら?」
と思われることだろう。
人が見る目というのは、本当に人それぞれで、しかし、そこには自分の根底にある性格が影響しているということを意識している人がどれほどいるのであろうか。
「俺もまわりからどんな風に見られているんだろうか?」
自分が好きになった人や、親から見られる分には、意識はしていたが、それ以外のただの友達や、利害関係だけで結びついているような人には、どう思われてもいいという程度にしか思っていなかった。ただの友達、いわゆる挨拶や世間話をする程度の友達であれば、相手にどう思われようが、自分は自分であり、下手に影響を受けてしまって、自分を見失ってしまうことを恐れるであろう。
表情から人の感情を見ることは誰でも試みてみることだが、どんなに鋭い人でも、表情から感情を見抜けないのが、無表情というのであるとすれば、武明が見ている目の前の老人は無表情だとはいえるだろう。
ただ武明には大きな勘違いがあった。
老人が無表情なのは、
「年を取ってしまったことで、欲がなくなった。だから、感情が表に出ないのではないだろうか」
と感じたことだった。
しかし、老人にはちゃんと欲があり、それが生きるための糧になっているのではないかと思わせることがすぐその後に分かろうとは、思ってもみなかった。今まで数年間、ずっと老人一人だった縁側に、別の人が現れるようになったからだ。
「おや?」
と感じるようになったのは、老人の無表情だと思っていた表情に、明らかな感情が生まれてきたのを感じたからだ。
その表情とは笑顔だった。
それも、隠微な笑顔であり、唇が怪しく歪んだのを感じると、それまでにない胸騒ぎが、背筋に冷たい汗を流させたのだ。
「何だ、これは?」