柿の木の秘密
そんな嫁なので、最初こそ、いい嫁を演じていたが、元々貧乏性でじっとして要られないタイプだった。旦那との夜の生活もいい加減嫌気が差してきていたので、頃合を見て浮気の一つや二つしてやろうと思っていた。
昔の男に連絡を取り、セフレとしてキープしておけば、どうせ鈍感な夫のことなので、気づくはずもないと思っていた。
実際に、その想像は当たっていた。旦那が嫁の浮気について何も言わない。嫁としては、夫が鈍感だと思っていたので知らないものだと思い込んでいたが、実際には夫も知っていた。知っていて何も言わないのは、自分にも後ろめたいことがあるからだという分かりきったことに気づかなかったほど、夫のことを見下していたのだった。
しかも、妻から見て、夫は実に肝の小さな男で、もっともそんな夫だからこそ、妥協して結婚したのだ。結婚してからは、自分が主導権を握りやすいと考えたからだった。
確かに旦那は肝が小さかった。しかし、
「そんな男だからこそ、モテるのだ」
ということを、嫁は分かっていなかった。
嫁は自分がまわりを冷静に見ることのできる人間で、相手よりもすべてを分かっていると思い込んでいた。しかし分かっていると思っていた世界は、まわり全体ではなかった。一部だけしか分かっていないくせに、それをすべてだと思い込んでいたのだ。
まるで中世の、
「地球が太陽のまわりを回っているなんて信じられない」
という常識に凝り固まったような女で、それは自分以外の人を認めようとしない傲慢で自己顕示欲の強い女である証拠だった。
しかし、ある時、妻は夫の浮気を発見してしまった。
「そんなバカなことありえない」
と、自分の頭で描いた世界の崩壊を感じたが、彼女は一筋縄ではいかない女だった。
すぐに我に返ると、
「相手も同じことをしているのなら、自分が一番その気持ちは分かる」
と感じた。自分が知らないふりをしていれば、きっと騙せると思ったのだ。
結局はバレてしまったのだが、女の悪知恵は底知れぬものがある。いつの間にか自分の不倫を正当化させることに成功し、相手と手を組むことをも成功させた。やはり、
「蛇の道は蛇」
と言ったところであろうか。悪知恵も一人なら一でしかないが、二人で考えれば、三にも四にもなる。一人では見えないところを相手が指摘してくれるからだ。事ここに至って、いよいよ悪知恵と他人事だと考える人との世紀の対決が始まるのだった。
武明は、そんな発想を抱きながら、新しい小説の構想を練っていた。舞台はもちろん、隣の家だった。まるで自分の発想が他人事から、実際に自分に降りかかってくることであるかのごとく考えていると、新しい発想が、どんどん溢れてくるように思えてくるのだった。
武明は、双眼鏡を買い込んでいた。これは大学時代から持っていたもので、最初は何に使うのか自分で想像もつかなかった。なぜ、双眼鏡など買ってしまったのか自分でもその時の心境は覚えていない。いわゆる衝動買いだったのだろう。
しかし、その頃から妄想癖があったのは事実で、覗き願望もあった。実際に覗きや盗撮に走ることはなかったが、双眼鏡を見た時、ムラムラとした感情が湧いてきたのも、妄想癖なるがゆえんだと思えば、納得がいく。
武明は自分の性格を異常性格だと思っている。引き篭もりになったのがその最たる例であり、最初はそんな自分を自ら苛めるような気持ちになっていたものだが、慣れてくると、意外と悪いものではないと思い始めた。人に迷惑さえ掛けなければ、別に妄想癖があったとしても、それはただの個性であり、小説などの文学作品として残せれば、むしろ個性としていいことではないかと思い始めていた。
隣の老人を毎日観察するのも、別に悪いことではない。そこでプライバシーにかかわることを知りえたとしても、誰かに言わなければそれでいいのだ。人の秘密を自分一人が密かに楽しむというのは、実に快感である。
しかし、老人は毎日同じ時間に縁側に出て、ただ表を見ているだけだ。板塀に囲まれたさほど広いわけではない普通の何もない庭を、飽きもせずに毎日眺めている。一体何が楽しいというのだろう。
庭と言っても、建物に面したところは、縁側だけが庭になっていて、玄関側は板塀で仕切られている。入ることはできず、上から見ている限り、縁側からしか普通に入ることはできない。縁側以外の三方は、すべて板塀に囲まれているのだ。
息子夫婦がいた頃は、子供用に個人用の木製のブランコや滑り台が置かれていたが、そういうものがあったおかげで、最初は狭く感じられた。
しかし、息子夫婦がいなくなると、遊び道具は一掃され、何もなくなってしまった。その時上から見ていると、
――こんなに広かったんだ――
と感じたが、次第に何もない状況に目が慣れてくると、
――だんだん、狭くなっていくように感じる――
と思うようになっていった。
目の錯覚というのは、自分の精神状態に微妙に影響してくるものであった。最初、あれだけ広く感じた時は、自分の中の寂しさに苛まれていたが、次第に狭くなるにつれて寂しさが解消されては行ったのに、今度はどこか自己嫌悪を感じるようになっていった。
それが自分の中にある躁鬱症だということに、最初は気づかなかった。その頃は、まだ自分が異常性格だとは思っていなかったので、躁鬱だとは思いもしなかった。
――躁鬱というのは、異常性格の人がなるものだ――
という偏見を持っていたのも事実だった。
だが、自分が躁鬱であると分かると、
――正常な人でも躁鬱になるんだ――
と、誰もが考えることに気が付いたつもりだったが、今度は自分に異常性格の兆候を感じ始めると、
――躁鬱は、やっぱり異常性格の人にしかならないんだ――
と感じるようになった。
それが間違いなのか正しいのかは分からない。なぜなら、異常性格の異常がどれほどのものか、人によって感覚が違うからだ。
躁鬱になるような人も含めて異常と表現するのか、それとも、躁鬱とはあくまでも個性の表れであり、悪いことではないと思うことで、異常性格の人だけとは限らないと思うのか、なかなか難しいところであった。
しかし、これは最初から躁鬱を悪いことだという発想を前提に考えているから、こんな考えになるのだ。躁鬱というのが、精神に影響を及ぼすというよりも、精神が躁鬱に影響を及ぼすものだと考えると、その時々のまわりの環境も大きく影響してくる。一概に精神が正常か異常かという問題だけではないと思えてきた。
武明が自分を異常性格だと思い始めたのは、欝状態の時、自己嫌悪に苛まれていたのだが、欝状態から抜けて躁状態になってもまだ自己嫌悪から抜けることができなかったときのことだった。
何をやってもポジティブに考えられるはずの躁状態で、自己嫌悪だけが抜けなかった。せっかくの躁状態なのに、自己嫌悪が邪魔をして、下手をすれば欝状態よりも精神的にきつかったりする。
「どうして俺は、わざわざいばらの道を選んでしまったりするんだ」
自己嫌悪がどうしようもないもので、自分ではどうにもならないものだと分かると、わざわざ自分を追い込もうとする根底にある性格を、武明は異常性格だと感じたのだ。