柿の木の秘密
「ええ、その話を杉下老人は、一人の女性と連れてきているところで急に初めて、その日は中途半端で終わって、翌日、わざわざ一人で私に話に来たんです。最初から、彼女に最後まで話をする気がないのであれば、何もその日に思い出したように話さなくてもいいはずなのにですね。おかしなことをするものだって思いました」
「話はそれだけだったんですか?」
「ええ」
「じゃあ、マスターも中途半端にしか話を聞けていないんですよね。でも、マスターはそれで満足しているのだとすれば、彼女も途中で話が終わったとしても、それで満足しているのかも知れませんよ。つまり聞きたいところまでは聞けたということなんだって思いますよ」
「なうほど、それはあるかも知れませんね。私はあくまでも私の発想でしかなかったからですね」
「実際に、遺書が見つかった。でも、その遺書は誰がいつ書いたもので、本当にその女性が自殺をしたのかどうか、それも分かっていないんでしょう? マスターはそれを聞こうとは思わなかったんですか?」
「ええ、その話をしている時は、続きを聞きたいと思っていたはずなんですが、そこで話が終わると、それ以上聞きたいとは思わなくなりましたね。おかしな感情なんでしょうが、前の日に一緒に来た彼女も同じなのだとすれば、面白い発想ですよね」
「これが自然や偶然だったら面白いんでしょうが、もし、これが杉下さんの最初からの計算で、自然でも偶然でもなかったら、心理的な発想にかなり長けた人だということになりますね。何か怖くなってきました」
「ええ、私も改めて、そう感じますね」
「マスターは。綾乃という女性をご存じですか? 杉下老人のヘルパーをしているらしいんですが」
「ええ、杉下さんから聞いたことがあります」
「その人は、息子さん夫婦が同居から別居することになった時、彼女の派遣を依頼したという話なんですよね」
「えっ、息子さん夫婦ですか?」
「ええ、息子さん夫婦はこの間まで同居していて、一人になる杉下老人を気遣ったようですよ」
「そういう話なんですか? 私は、杉下老人の息子さん夫婦は五年前から海外で暮らしているという話を伺いました。確かヨーロッパの都市を数か所勤務して、まだヨーロッパにいるはずだって聞いていますよ」
マスターからの意外な話を聞き、本来ならもっと驚くべきなのだろうが、ここまでの話の影響で、感覚が鈍っているのだろうが、少々の話に驚くことはなくなっているようだった。
「じゃあ、あの時杉下老人と一緒に住んでいたのは一体誰だったんだろう?」
マスターの顔を正面から見つめて、疑問を投げかけたが、その表情は心境に比べるとかなり奇抜な表情をしていたことだろう。
だが、マスターにも相手の心境が表情ほどではないということを分かっているのか、さほど驚いている雰囲気はなかった。
「私には分かりませんが、さぞや老人は同居人と言っても、気心の知れたような表情をしていなかったのではないかと思えて仕方がないんですよ」
「その通りです。僕が勝手に息子さん夫婦だと思い込んでいたのかも知れません。そう思うと、綾乃という女性に対しても、疑問だけでは済まない何かを感じます」
「以前杉下老人は面白いことを言っていましたね。『人は一人では生きてはいけないという言葉があるけど、それって本当なのかも知れないですね』って言っていましたよ」
「杉下さんらしくはないですね」
「ええ、私もそう思ったんですが、その後に寂しそうな表情になりました。『犠牲のための犠牲が、人を一人では生きていかせないんでしょうね』ってですね」
「犠牲の犠牲ですか?」
「ええ、ニュースなどで、政治のための政治なんて言葉を聞きますが、何とかための何とかって言葉は、あまりいいイメージはありませんよね。私はその言葉を聞いた時、その少し前に話してくれた柿の木の話を思い出しました。例の手紙が入っていた箱の話ですね。杉下さんが話しをしたように、本当に箱の中に箱があったのかどうかは分かりませんが、最初は信じていたんですが、そのうちに杉下さんの作り話ではないかとも思えてきたんですよ。それはそれで間違いではないような気がしてですね」
「言われてみればそうですよね。でも、ウソをついているわけではないように思えるんですよ。例えば、手紙を見つけたその前後に、箱の中の箱に由来するようなことがあり、その印象が深く頭の中に残ってしまったために、杉下老人の記憶が交錯してしまったのではないかという考えですね」
「なるほど、それは言えると思います。印象深いことであれば、記憶と意識が交錯してしまい、事実と願望や妄想が入り組んでしまって錯綜してしまうこともあるだろうからですね。杉下さんがそうではなかったと言えないような気がします」
杉下老人のことを考えていると、いろいろな発想が浮かんでくる。
まず、同居していた人たちは本当は息子夫婦ではなかったという発想である。確かに同居人が家族であるという話を誰かから聞いたという記憶もなかった。この店で人と話す以外は、ほとんど誰とも会話したことのない武明なので、その信憑性はほとんどなかった。
ただ、普通の人は、
「ほとんど誰とも会話しないと言っても、会話をすることがまったくないわけではないのだろうから、話をした人が誰だったのかということくらいは分かりそうなものだよな」
と言われるであろう。
しかし、武明はその逆だった。
たまにしか人と話をしないので、話をしたと言っても、その記憶はほとんどない。幻だったかのような記憶しか残っていない。そう考えてみると、武明の意識の中にある記憶や記憶の中にある意識というのは、信憑性がほとんど感じられなくなってくる。
――杉下老人に対して今まで見てきたと思った記憶も、本当は信憑性のないもので、勝手に想像していたものなのかも知れない――
そう思うと、今までの自分の感覚をすべて否定してしまいそうになる自分を感じていた。
杉下老人は時々縁側で、ノートに向かって何かを書いていた。絵を描いているのではないことだけは分かったが、その様子を見ているとまるっで自分を見ているように感じた武明は、老人の書いているものが詩なのではないかと思えてきた。
詩を書いている時の老人の表情は楽しそうではない。少なくとも趣味をしている顔ではなかった。そんな表情を見て、
――自分に似ている――
と感じたのは、自分も詩を書きながらつまらないと思っているのかも知れないと感じると、やるせない気分になってきた。
「杉下さんは、詩を書いたりしているんですかね?」
と、マスターに聞いてみると、
「さあ、それは私には分かりません。でも、話をしていて、いつも迫ってきているであろう『死』というものを意識しているようには思えていました。私がそれを敢えて口にすると、却って意識させてしまいそうになるので言わないのですが、最初に杉下さんが死を意識していると感じたのは、老人が自分の頃の子供の話をしてくれた時だったですね。やっぱり、あの時の柿の木の思い出は、今でも忘れられないトラウマを形成しているのかも知れませんね」
と話した。