柿の木の秘密
しかし、自分を他人事として見るのではなく、客観的な冷静な目で見るという考えであれば、それは裏から表を見るという発想ではないだろう。
躁鬱状態にある自分は、欝状態の時に躁状態の自分を見ることはできない。躁状態の時に欝状態の自分を見ることもできないということは、それぞれの自分は違う次元に存在しているのではないかと考える。
「杉下老人は、もう一人の自分を探していたんだろうか?」
ふと、武明はそんな風に感じた。
「それは違うと思います。彼は自分だけであり、もう一人の自分の存在はないと思っていたんです。その話もしたことがありました。彼はもう一人の自分の存在という発想は持っていました。しかし、それは皆が皆ではなく、もう一人の自分というものが存在する人と存在しない人とに別れると思っていたようです。自分にはもう一人の自分は存在しないと自分で思っているようでしたよ」
というマスターの話を聞いて、
「僕ももう一人の自分という発想は以前から持っていました。でも、僕は杉下老人と違って、もう一人の自分は、誰にでもいるものだと思っています。いる人といない人が同じ次元に存在するなど、僕には信じられません」
「その意見は私も同じですね。私も須藤さんと同意見です」
と、マスターはすんなりと認めた。
「でも、少しは違うかも知れませんよ」
あまりにも簡単に認められると、却って気持ち悪い。思わず反対意見を述べてみたくなったのも無理もないことだろう。
「もう一人の自分は同じ次元にいると思いますか?」
とマスターから言われ、
「僕は違う次元にいるのだと思います」
と答えると。
「やはり同じ考えですね」
と、マスターは答えた。
「でも、今まで見てきた杉下老人の様子は、確かに誰かを探しているような気がしていたんです。僕はそれをもう一人の自分ではないかと思った時期も正直ありました。そして、その意識が間違っていないと思ってもいたんですよ。それが違っているのではないかと思ってもいなかったので、マスターの意見を聞いていると少し新鮮な気がしてきました」
と、武明がいうと、
「彼は確信犯なのかも知れないですね」
とマスターが即答した。
「確信犯? それはどういうことですか?」
「彼は、誰かに見られているということを最初から分かっていて、そのつもりで行動していた。だから、須藤さんが信じて疑わないように仕向けることもできる。でも、逆にそれは無理のあることでもあるんですよ。つまりは、どこまでが彼によって作られた感情なのか、判断がつきにくいともいえますね」
マスターの言っている意味を半分分かった気がしていたが、半分は分からない。しかもその分からない部分に、肝心なところが含まれているような気がして、武明は再度「確信犯」という言葉を反芻してみた。
「杉下さんが見られていることを意識していたなんて、分かりませんでした」
「それはそうでしょう。見ている方は、なかなか相手が気づいているということは分からないものですよ。だから、ミイラ取りがミイラになったなどということわざがあったりするんじゃないですか?」
まさにその通りだった。
「杉下老人というのは、何か秘密めいたところがありますよね」
「だから、分かりやすいところもあるんですよ。何か秘密を持っていると思わなければ、ただ孤独な老人というだけしか分からないような気がしますからね」
「確かにそうです。そういう意味では僕なんか、孤独な男にしか見えないかも知れませんね」
と言って苦笑いをした。
「でも、男というのは、えてして孤独な部分を醸し出している人が多いと思いますよ。それに比べて女性は秘密めいたところがあるんだと思いますよ」
というマスターの話を聞いて、
「なるほど、じゃあ、杉下老人は女性っぽいところがあるということかな?」
自分で話していて、
――一体何を言い出すのだ?
と思うほどの話だった。
だが、マスターと話をしていると、突拍子のないことも自然であり、新鮮に感じるのだった。
「ところで須藤さんは、杉下さんの隣に住んでいるということだけど、杉下老人の行動を観察しているのかい?」
ここは、本当であれば否定しなければいけないところなのだろうが、相手がマスターであるということもあって、否定できなかった。
「ええ、そうです。でもストーカーのような行為には当たらないと思います。家のベランダから見える範囲でしか見ていませんからね」
「それはそうだと思います。ただ、杉下さんはそのことに気づいているんでしょうかね?」
そのことに関しては、半信半疑だった。気づかれているような気もしていたが、観察をやめる気にはなれなくて、気づかれてはいないと思うようにしていた。それなのに、いきなり他人から指摘されると、ドキッとしないわけにはいかなかった。
「どうなんでしょう? 僕は気づかれていないと思っていますが」
明らかに動揺している。その態度は相手がマスターでなくても分かるに違いない。それほど不自然だったのだ。
「ここでも確信犯という言葉が出てくるのかも知れませんが、杉下老人はあくまでも、誰にも見られていないという風に装っているんでしょうね。本当は分かっているんだって思いますよ。それを今度は相手に悟られないようにしようとするには、老人の方でもそれなりに意識させないようにしないといけないからですね」
「お互いに変な気を遣っていたということなんでしょうか? 僕の方は覗いていたというよりも、見えていたと思わせたいと考えていたのが、却ってあだになってしまったのかも知れませんね」
「観察する人間よりも、観察される人間の方が、はるかに意識しているはずですよ。気づくのも早いし、それでも隠そうとしないのは、そこに何かの確信犯的な意図があるからだと思います。すべてを正直に曝け出すのがいいのか、それとも、相手を惑わすようにいろいろ考えさせる態度を取るのがいいのか、老人はどっちだったんでしょうね?」
と言って、マスターは考え込んだ。
「私には分かりません」
もし、分かっているとしても、正直に答えはしないだろう。
「何か、老人のことで気になっていることはないですか? 曝け出そうとしている中にも、何かを隠そうとしているのであれば、分かることもあるかも知れない。『木を隠すには森の中』とも言うじゃないですか。それに一つのウソを隠すのには、九十九の本当の中に隠すのがいいなんてことも言いますよね。私は杉下老人と須藤さんの間に、何かそういう駆け引きのようなものを感じるんですよ。考えすぎなのかも知れませんけどね」
マスターはそういうと少し考え込んでいた。
「そういえば、杉下老人は、庭にある柿の木を気にしているようでしたね」
須藤は、言おうか言うまいか迷っていたが、気が付けば口から出ていた。
この言葉が何を意味するのか、マスターには分かるのではないかと思ったからだ。杉下老人のことで気になる点があるとすれば、一番大きいのはこのことだたt。
「柿の木ですか。そういえば、杉下さんは以前、柿の木の話をしてくれたことがありました」
とマスターがいうと、
「えっ、そうなんですか?」
意外な話にビックリして武明は答えた。