柿の木の秘密
武明には、兄弟もなく、親戚もほとんどないことで、土地建物を処分しても文句を言われることはなかった。元々お金に執着のある方ではない武明は、生活も質素で、仕事をしなくても、困らなかったのだ。
一人暮らしの場所も、悪戯に広い部屋を借りることもなく、ワンルームのコーポだった。一人で過ごす部屋は、質素で狭い方がいい。下手に広いと、寂しさが込み上げてくるからだ。
最初は、さすがに両親が死んでしまったことで、寂しさを感じないわけではなかった。仕事もなく、毎日をどのように過ごせばいいのか、不安を隠せない毎日だったからだ。
何しろ、
「一日に一つは何かの成果を残さないといけない」
と自分にノルマを課していたのだ。一日の長さが永遠であってほしいと思ったことだろう。そんな時に限って、一日なんてあっという間のことだった。
それなのに、親が亡くなって、仕事もない。たった一人で寂しさの中生きていくには、――次の日は永遠にやってこないかも知れない――
と思うほど、不安に苛まれていた。ここまで感覚が変わってくるなど、想像もしていなかった。
しかし、武明は何も考えないという意識を会得することができた。その心境に至ったことで、毎日が次第に見えてきて、
――明日は必ずやってくる――
と思えるようになったのだ。
「毎日って、こんなにも規則的にやってくるんだ」
と初めて感じた。
学生時代や社会人になってからも、規則的な時間を過ごしていたはずなのに、どれだけ一日全体という時間を意識していなかったのかということを自覚したのだ。
何も考えずに過ごす一日は、規則的な毎日を過ごしてきたと思っていた時期に比べて、さらに短くなっているように思えた。そのくせ、一日は短く感じるのに、一週間単位で考えると、結構長く感じられる。その理由は、何もしなくなると、一週間という単位を考える必要がなくなったからだった。
仕事をしていると、一日の次は一週間、そしてひと月というように、期を一つの単位として組み立てらなければいけない。それは学生時代でも同じだったが、仕事ともなると、もっとシビアであった。
「これが、学生時代との違いでもあるんだ」
と思ったのも、社会人になって嫌なことの一つだった。
学生時代にも確かに期という感覚はあったが、基本は一日一日の積み重ねだった。仕事をしていても同じなのだが、学生時代には、積み重ねを清算するという時期は存在しない。存在するとすれば、それは目的の完遂であって、決めた期日は週であったり、月であるというわけではない。
武明は仕事を辞めてから無為な毎日を過ごしていたが、学生時代にやっていた詩を作ることをやめたわけではなかった。毎日思ったことを詩にして、一か月も経てば、結構な量になっていた。
それを出版社に持ち込むこともあった。
学生時代の友達が出版社に勤めていることもあって、そのつてで一月に一度、原稿を渡すという理由を含め、親睦を目的に会うようにしていた。
「今月は。これだけです」
「ありがとう」
表向きには、作家と出版社の担当の会話のようだが、立場はまったく逆だった。武明の方が無理強いをしているだけであって、友達もいい迷惑だったに違いない。
――こんなことがいつまでも続くことはないよな――
と思いながらも、思ったより長く続いている。それなりに出版社の中で評価のようなものがあるんだろうか?
そんな淡い期待を持っていたが、期待というのはやはり淡なものであり、誰にも読まれていなかったのだ。
それでも、今は何もない武明には嬉しかった。会って原稿を受け取ってもらえるだけで満足していたと言ってもいい。
「もっと、たくさん、いろいろな詩を書くようにするよ」
というと、あからさまに社交辞令の苦笑いしか浮かべていない相手の様子に分かっていながら、分からないふりをしているのも、悪い気はしなかった。
相手がそれで苦笑いをしているのであれば、それはそれで相手を欺くような小さな楽しみが生まれていた。奇怪な楽しみ方の一つだった。
そんな細やかな楽しみは、その時の武明には貴重だった。
――俺に悪戯心がなくなったら、もう終わりなのかも知れないな――
と感じていた。
落ちるところまで落ちたという思いは、却ってアッサリしたものだった。
――これ以上落ちることもなければ、悔やむこともない。すべてが他人事として過ごせる期間を味わえるというのは、それなりに楽しいものではないか――
そう思うと武明は、今自分がこの世の誰も味わったことのない。そして、これからも味わうことのない心境を味わっているという感覚を楽しんでいたのだ。
――毎日って、いったい何だったんだろう?
まるで我に返ったように感じた武明は、過去を振り返るのが結構楽しくなっていた。
自分の死期が分かっている人には、自分の過去が走馬灯のように思い返せるというではないか。そんな気持ちを武明は楽しんでいたのだ。
――本当に、俺はもうすぐ死ぬのかも知れないな――
と思ったが、焦りもなければ、悲しくもなかった。
完全に他人事であり、死ぬことは怖いとも思わない。もちろん、詩の寸前になれば、怖かったり、後悔もするのだろう。しかし、他人事に思える今は、そんなことは関係ない。人生など、考えるに足りないものだと思っていた。
つまりは、思い出すことを素直に受け止めればいいのだ。それだけで、自分が生きているということになるのだと、武明は感じていた。
武明は、会社に勤めている時、好きな人がいた。その人は同じ会社ではなかったが、通勤時間、同じ電車に乗り合わせることが多かった。
武明が寝坊していつもの電車に間に合わず、
――しまった、今日は彼女と会うことはできないな――
と、遅刻しそうになっていることよりも、彼女と会うことができない方が、数倍悔しかった。それだけ会社に嫌気が差していたと言っても過言ではないのだろうが、通勤時間、好きな人と同じ空間に存在できるということを感じている時は、それ以外のことはどうでもいいことだった。
大学時代に友達だった連中とは、就職するとともに、疎遠になった。友達の中には、
「卒業しても、時々会うことにしような」
と、あくまでも友情を貫くことを心情としているやつもいた。
友達の中でも中心的な存在だった者には、学生時代の友達は大切に違いないのだが、それ以外の連中には、そこまでのこだわりはない。むしろ、就職して新しい環境に馴染むことに神経を費やしている時に、わざわざ大学時代の友達と会って、昔話に花を咲かせるころは、完全に後ろ向きの考えだった。
さすがに最初の一、二度くらいは顔を出す人もいるだろうが、会社の上司から、
「あいつはまだ学生気分が抜けていない」
と思われるのがオチで、これからの自分の人生を考えると、学生時代の友達と親密なままでいるのは得策ではなかった。
仕事が終わってから帰宅途中、大学生と思しき連中が、街中を我が物顔で歩いている。歩道いっぱいに広がって歩いている連中は、まわりのことなどお構いなしに、大声で叫んでいるようだ。内容は自分たちにしか分からないことで、まわりから見ていて、迷惑千万以外の何者でもなかった。