柿の木の秘密
――やっぱり風香ちゃんは、エプロン姿がよく似合う――
と感じていた矢先に、いきなりそんなことを口走った風香にビックリした。
さっきは、聞いても教えてくれないので、私は聞かないと言っていたばかりではないか。その言葉にも戸惑ってしまった武明だった。
するとマスターは、少しだけ表情を変えた。
今まで戎様を思わせる笑顔だったのが、無表情に変わった。最初から無表情であれば何も感じないのだろうが、ドキッとされられるような雰囲気に、一瞬後ずさりしてしまいそうだった。
どうしてドキッとしたのかというのはすぐには分からなかったが、分かってみると、当たり前のことだった。
――何を考えているのか分からない――
この思いが不気味さを醸し出し、ドキッとさせられたのだ。
だが、マスターは口を閉ざすことはなかった。
「杉下さんは、私の師匠なんですよ」
いきなり結論めいた言葉から入ったのは意外だった。普段話をしていても、どちらかというと理路整然とした話し方をする人なので、いきなり結論から言うというのは、
――他のどこから話したとしても、結局は同じなのかも知れないな――
と思わせた。
「師匠? それは何の師匠なんですか?」
というと、マスターは少ししたり顔になって、
「私は、これでもバーテンダーの資格を持っているんですが、杉下さんは、私が若い頃、バリバリの現役で、よく教えてもらいました」
やはり、マスターのいで立ちや立ち振る舞いは、バーテンダーの資格を持っているだけのことはあるというものだ。
「そうだったんですね。でも今の杉下さんからは、なかなか想像もできませんが」
と言うと、
「須藤君は、杉下さんのことをよく知っているようだけど、あの人は内面をなかなか見せない人なので、実際に関わってみないと分からないところの多い人なんですよ」
少し棘を感じる言葉だったが、それを皮肉っぽく言わないのも、マスターの特徴ではないだろうか。
「どこか秘密っぽさを感じさせる人だとは思っていましたけど、まさかバリバリのバーテンダーだったなんて、意外でしたね」
というと、マスターはさらにニヤッと笑うと、
「あの人は、寂しい人なんだけど、その寂しさを表に出せないところが性格的にきついところなのかも知れないですね」
「寂しそうには見えますよ」
「そうですか? 寂しいというのは、漠然と寂しく感じる時と、それまで自分のまわりにいた人が去った時に感じる寂しさとがあるんですが、あの人には漠然とした寂しさは感じられないんです。私は少なくとも感じたことはなかったですね。一度、自分のそばにいた大切な人に去られた時のあの人の落胆を知っているだけに、余計にそんな風に思うのかも知れません」
「そばにいた大切な人?」
「ええ、それは杉下さんの奥さんです。奥さんはまだ四十歳代半ばで亡くなられたんですけど、病気と分かってからの杉下さんはバーテンダーからも引退して、奥さんのために献身的に尽くしましたよ。息子さんも、それなりに応対はしていたようなんですが、さすがに杉下さんのようには行きません。まだまだ学生だったので、杉下さんが奥さんの面倒は自分が診ると言ったんでしょうね。奥さんが亡くなってからしばらくは、杉下さんは精根尽き果てて、抜け殻のようになっていましたよ」
それを聞いて少し考え込んでいると、マスターは続けた。
「今と変わらないと思っているでしょう? いえいえ、全然違いますよ。今は整然としているけど、あの時の落胆は今にも後追い自殺してしまうんじゃないかって、まわりの皆心配するほどでしたからね」
「息子さん夫婦に対してはどうなんですか? 自分の関心の外のような気がして仕方がないんですが」
「それはその通りでしょうね。奥さんと杉下さんの間のことは誰にも分からない。そして息子さん夫婦のことは、いくら父親だといっても杉下さんには分からない。そのことをしっかりと理解しているんじゃないですかね」
「ということは、今の杉下さんは、奥さんを亡くしてからの延長にいないように思えるんですけど」
「それもいえるかも知れません。杉下さんは奥さんが亡くなってから、しばらくは本当に抜け殻でした。それから少しずつ元気を取り戻していったんですが、その時、バーテンダー協会の別の仲間が悪気はなかったと思うんですが、杉下さんを慰めようとして、スナックやキャバクラなどに連れていったようなんです。最初の頃は、ただついていってだけだったようなんですが、途中からのめりこんでしまうようになったようで、結構風俗などいろいろ通い詰めたりしたようです。人から聞いた話、そんな杉下さんと、キャバクラの女性が仲良くなったりならなかったりということでした」
「杉下さんが風俗に? にわかに信じられる話ではないですね」
「それはそうでしょうね。でも、だからと言って、杉下さんは自分を見失うようなことはなかったようですよ」
「風俗通いをしていてもですか?」
「ええ、そうですね。風俗通いをしていたからと言って、自分を見失う人ばかりだというのは偏見ではないでしょうか? 風俗に対しても、通っている人に対してもですね」
「確かにそうかも知れませんが、杉下さんを見ていると、風俗通いの影響であんな風になったのではないかと思えてくるからですね」
「それは違うと思います。杉下さんは風俗に通って女の子とお話をすることが好きだというところから始まったようです。実際に杉下さんは、EDだった時期があったくらいですからね」
「今は治っているんですか?」
「ええ、治っているようですね。精神的な部分が発端で、軽症だったんでしょう」
「それはよかった。奥さんが亡くなったショックもあったのかも知れませんね」
「だから、杉下さんが風俗に頻繁に通うのも、治療の一環の意味もあったんですよ。本当はこんなこと、他人に話してはいけないとも思っていますが、杉下さんは須藤君になら話してもいいと言っていたんですよ」
「えっ?」
武明はビックリして、目をカッと見開いてマスターを見た。
この言葉は、武明を屈辱の底に叩き落すものだったが、話の流れからそこまで屈辱を感じる必要もないことに気が付いた。
それを見て、マスターはまたしてもしたり顔になり、にんまりとしていたが、このことでどうしてマスターがしたり顔になるのか、理解に苦しんだ。
「実は、須藤君は気づいていないと思っているのかも知れないけど、杉下さんは君が二回のベランダから毎日見ていることに気づいていたんだよ」
何となくそんな気もしていたが、あらためて言われるとビックリしてしまう。武明がどんな目で見ていたのかを鑑みると、杉下老人も自分のことを曝け出してでも、もう一度自分を見てほしいと思ったのではないだろうか。
「そうですか、僕が見ていたのを知っていたんですね?」
「ええ、あなたは上から見ているので、全体を見渡すことができるんでしょうけど、その分遠く感じられているはずですよね。でも、向こうのように下から見上げる時は、比較的近くに感じられるものなんですよ。それが見ている方と見られている方との感覚の違いに微妙に関係してくるんでしょうね」
確かに下から見上げるよりも上から見下ろす方が、遠くに感じられる。それは、