柿の木の秘密
武明はすでにこの店では常連になっていて、風香の買い物の手伝いには何度か行ったことがあったので、違和感はなかったが、杉下老人が来ているのに表に出るのは少し遠慮したかったが、せっかくの風香の誘いでは断わる気にはなれなかった。
「じゃあ、須藤君。お願いするよ」
と、マスターからも言われてしまっては、すでに大勢は決していた。
「風香ちゃん、それじゃあ、一緒に行こう」
と言って、武明は席を立った。
表はすでに日は高いところまで昇っていて、朝の時間は過ぎてしまった気がした。
ただ、影に入ると少し寒い。やはり朝は朝なのだ。
風香にしたがって表に出ると、風香が話し始めた。
「さっきのお客さん、杉下さんというんだけどね、あの方はマスターと以前から知り合いのようなの」
「そうなんだね。風香ちゃんがすぐにマスターを呼びに言って、マスターがすぐに飛び出してきたのを見た時にそう思ったよ。でもね、不思議な感覚でもあるんだ。マスターは杉下さんと呼ばれるその人の顔を見ても、懐かしそうな表情や、人懐っこさも感じられなかった。まるで事務的な雰囲気しか感じなかったのは、なぜなんだろうね」
武明は、杉下老人が自分の隣に住んでいることや、老人のことを知っていることすら黙っていようと思った。本当は最初、老人を知っているということをすぐに口に出そうと思った。思わなくても衝動的に口から出てきてもよさそうだったのにそれがないということは、最初から知っていることを隠さなければならない何かを感じていたからに違いなかった。
「それはきっと、杉下さんの雰囲気にあるんじゃないかな? あの人に対しては社交辞令や懐かしさ、そして人懐っこいという概念はないのよ。私が思うに、あの人の中に、孤立はあっても、孤独というイメージがないために、余計な感情や人との付き合いに必要な態度など、ないといってもいいわ。私も最初はとっつきにくくて苦手だったんだけど、今では一番気楽にお相手ができる人の一人になったのよ」
「そういう人って意外と多いのかも知れないね。僕は前から孤立と孤独の違いについていろいろ考えたことがあったので、風香ちゃんの話も分かる気がするんだ」
風香の顔を見ていると、さっきの井戸の話を思い出した。自分が井戸の中に入り込んだところまでは意識という記憶があるのに、それ以降の記憶はない。やはり夢を見ていて、忘れてしまった夢の中の一つになるんだろうか。
「杉下さんという人は、私がこのお店でアルバイトをする前の常連さんだったらしいの。でも三年前くらいから急に来なくなって、マスターは心配していたらしいんですが、最近また来るようになったらしいの。どうやら、同居していた息子さん夫婦が出て行かれてから、またここに来るようになったということだわ」
確かに息子夫婦がいなくなってから、朝の時間、老人が縁側に姿を見せることはなかったが、それは綾乃と一緒にいるからだと思っていた。
「杉下さんというのは、いつもこのお店には一人で来られるの?」
と、ふと頭の中に綾乃の顔が浮かんできた。
「いいえ、一度女性の方と一緒に来られたわ。実に気が利く女性で、杉下さんをしっかりフォローしていたわ」
「物静かで清楚な感じの女性なんだね?」
「ええ、でもここでは絶えず彼女が喋っていたわ。杉下さんが何かを言おうとしても、それを遮って自分から口を開くようなそんな感じ」
武明が知っている綾乃とは雰囲気が違っているようだ。
――ということは、綾乃とは別の女性と一緒に来ているのかな?
と思った。
しかし、一緒に来たのが一度だけと言うのはどういうことだろうか?
一度は一緒に来たということは、一見ではない店でのことなので、知られたくない相手ではないはずだ。武明には、それでもその女性が、綾乃以外には考えられない気がしていた。
「ところで、その女性は風香ちゃんにはどんな感じに思えたの? 杉下さんに対してというのかな?」
「最初は、お孫さんかと思ったんですよ。でも、お孫さんにしては、年齢が近い気がしていましたし、娘だとすれば、今度はかなり年が離れているでしょう? まさか、愛人という風にも見えなかったし、愛人だったら、簡単に人前に見せないと思うし、一度見せたのなら、それ以降も一緒に来ていそうな気がしたのよ」
その話を聞いて、それは今自分が感じたことだと思うと、今度は逆の発想が浮かんできていた。
「でも、愛人だとして、一度顔見せしておいて、まわりが愛人だという目で見ていると判断したから、もう連れてこなくなったのかも知れないですよ」
「私もそれは考えたわ。でも、杉下さんは、それからも一人でちょくちょくこの店に来るようになったんだけど、どうも寂しそうには見えないのに、前に比べて小さく見えるような感じがしたの。最初は、それがどうしてそんな風に感じるのか分からなかったわ。でも、次第に分かってきたの」
「どういう風に?」
「杉下さんは、小さく見えるようになったわけではなく、遠くに見えている感覚なのよね。テーブルの位置は変わらないので、遠くに見えているとは思えない。だから、最初に小さく感じてしまったんだと思ったわ」
「女性と一緒にいる時は、遠くに感じられた?」
「ええ、その女性と一緒に来た時からそんな感じがしていたの。だから私、杉下さんとはほとんどお話したことはないの。マスターはいろいろお話を聞いているようなんだけどね」
「じゃあ、杉下さんのことはマスターに聞いた方がよさそうだね。風香ちゃんは、杉下さんのことをマスターに訊ねてみたことはあったの?」
「いいえ、ないわ。私が聞いても、何も教えてくれないような気がしたの」
風香はそういうと、少し寂しそうな表情になった。
風香がそう思うのなら、武明は自分が聞いても同じなのかも知れないと思ったが、とりあえずは聞いてみようと思った。
「ただいま」
風香が扉を開けて中に入ると、すでに杉下老人は帰っていて、客は誰もいなかった。カウンター越しにグラスを拭いているマスターを見ると、マスターはバーテンダーをしていても似合うように思えたのだ。
「おかえり」
マスターの返事が返ってくると、それを聞きながら風香は買ってきたものを奥にしまいに行ったようだ。
武明は最初に来た時のいつもの指定席であるカウンターの一番奥に座り、いつの間にか荒いものの手を休めてコーヒーを入れてくれようとしているマスターの姿が目に入った。
「風香ちゃんのボディガード、ありがとう。新しいコーヒーを淹れるので、少し待ってくださいね」
と、マスターはニコニコしながら、手際よくサイフォンを扱っていた。
この店のコーヒーは、コーヒー専門店にも負けない味を出している。店内にはコーヒーの香ばしい香りが溢れていて、表がどんなに寒い時でも、コーヒーの香りを嗅げば、暖かさはすぐに訪れるのだった。
「はい、どうぞ」
すでに用意は万端だったのか、すぐにコーヒーを持ってきてくれた。新しく淹れなおしたようで、表から帰ってきた時に感じた安心感を、再度感じることができた。
エプロンを引っ掛けて、奥から出てきた風香が、
「マスター、須藤さんは杉下さんのことが聞きたいらしいの。杉下さん、須藤さんのお隣に住んでいるらしいのよ」