柿の木の秘密
寝て見る夢というのは、時間的な感覚はマヒしているが、起きている時に見る夢というのは、意識した時間にピッタリと嵌っている。つまりは、急に時間を飛び越えることはない。ただ、夢に飛び込む時は時間を飛び越えているようで、普段自分が想像している範疇にある時は、それが夢なのか、妄想なのか、分からなくなっている。
しかし、何度か妄想が堂々巡りを繰り返しているのを感じることがあるが、そんな時は妄想ではなく、夢を見ている時ではないかと思うようになった。
今回の井戸への思いは、妄想ではなく夢を見ているようだ。夢の中で何度か我に返ったように感じ、その都度、孤独を感じる自分にもう一人の自分が語りかけているのを感じていたからだ。
そのことを感じるようになったのは、引き篭もりになってからしばらくしてからのことだった。
一度引き篭もってしまうと、表に出ていくことができない。それは表に出るのが怖いからではなく、妄想なのか夢なのかが分かっていない時に現実世界に飛び出すと、引き篭もった自分を、自分の力で抜け出すことができなくなるのではないかと恐れるからだ。
引き篭もってしまう最初の意識は、意地から始まっていた。このままでは世の中に適応できない自分と、目の前で繰り広げられようとしている夢の正体を知らずに表に出ることは、一度閉ざしてしまった自分の気持ちを開放することを嫌う。あまりにも当たり前のことしか言わないまわりは、それを勝ち誇ったようにいう。成長を意識しないそんな連中からの言葉に対し、どう言えばこちらの思いが通じるのか分からない。態度で示すと、引き篭もるしかなくなってしまうのだ。
だが、引き篭もってしまうと、自由な発想はとどまるところを知らない。
当たり前のことを当たり前にしか言わない連中を見下すくらいの気持ちになってくる。そうなると、自分を卑下する必要など何もない。だから、一度引き篭もってしまうと、まわりが見ているほどの孤独感はなく、自由な発想から、まわりに対しての優越感すら生まれてくるのだ。
武明は引き篭もってからしばらくは寂しいなどという感覚は忘れていた。まわりから無視されて次第に孤立していくわけではなく、自分からまわりを遠ざけているのだから、寂しいという感覚はない。それは自分を一度リセットして、
「一からやり直す」
というわけではなく、
「ゼロからの出発」
だと考えれば、大きなプラス思考だと思っている。
一からだと、やり直すことになるのだが、ゼロからだと、出発になるのだ。制限のある一とは違い、ゼロは無限の可能性を秘めている。一度すべてをぶっ壊して、新たな世界を構築するという考えが、引き篭もっている時に自分の中で一つの結論として浮かんできたものだった。
「自分と共鳴する人とでなければ付き合わない。そういう意味では、親であっても、その選択肢の中にある」
と言っていた武明だった。
さすがに今まで生きてきた人生をすべてぶち壊して、ゼロからの出発を試みるのは無理だった。しかし、限りなくゼロに近づけることはできる。武明にそんな発想をもたらしたのは、隣の家の庭先の老人だった。
――あの老人を見ていると、どうしても寂しそうには見えないんだ――
と感じていた。
息子夫婦がいる間も、いなくなってから綾乃が付き添うようになってからも、そして、綾乃の姿が見えなくなってからも、老人の雰囲気はまったく変わらない。
――老人には、まわりの誰も見えていないのではないだろうか?
と思うほどで、何をどう悟れば、あのような雰囲気の変わらない人間になることができるのだろう?
頭の中で発想が飽和状態になった時、武明は急に我に返った。
――そうか、急に我に返ることがあるが、そんな時は頭の中が飽和状態になった時なんだ――
と、いまさらながら当たり前のことを思い出したようで、思わず苦笑いをしてしまいそうになった。
「どうしたんですか?」
それに気づいた風香は、武明に声を掛けたが、
「なんでもない」
と、少しつっけんどんに言い返すと、今度は風香が苦笑いをした。
そんな雰囲気の中、風香の視線が入り口に向いたのに気づき、武明も反射的に入り口の方を振り返った。
武明がその人物を確認すると同時に、後ろから風香の
「いらっしゃいませ」
という声が聞こえた。入り口に立っていたのは見覚えのある顔だったが、それが隣の杉下老人であることになぜかすぐに気づかなかった。
杉下老人が現れたことは、武明には衝撃的だったが、なぜかビックリしたという感覚ではなかった。老人がこの店に現れたということよりも、いつもは上から見下ろす形で見ている相手を、座っているところからなので、ほんの少しではあるが見上げて見ることに違和感があったのだ。
その違和感がそのまま衝撃的なイメージに繋がった。縁側にいる時と表情はまったく変わらないが、客を迎える側の風香の表情には、薄気味悪さを感じている素振りはまったくない。むしろ人懐っこさすら感じさせるほどで、
――初対面ではないのだろうか?
と感じさせるほどだった。
杉下老人は新聞受けから新聞を取って、一番奥のテーブルに座った。その日は他に客もいなかったので、いろいろ自分勝手な妄想ができると思い、実際に井戸の話から、勝手に膨らませた妄想を抱いていたのは事実だった。
普段なら、そんな妄想の妨げになるような他人の来店を快く思わないはずの武明だったのだが、その時は邪魔をされたという意識はなかった。どちらかというと老人の出現は、自分の中では歓迎すべきものだったようだ。それだけ老人は存在しているだけで、どこにいても武明の妄想のタネになるようであった。
風香が水を持っていくと、
「コーヒー」
とたった一言言っただけだった。
他の客なら別に意識はしないが、杉下老人の一言は、さらに何か他の一言を誘発しそうで、おかしな感覚になっていた。
「杉下さん。マスターを呼びましょうか?」
と風香がいうと、
「ああ、そうしてくれるかな?」
と、風香を見上げてそう言った。その時の表情は、今まで知っている杉下老人とはまるで別人で、その顔には人懐っこさが溢れていた。しかし、人懐っこさが溢れていても、その表情の根底にあるのは、いつも縁側で見せている表情だった。それだけ武明にとっての杉下老人のイメージは、少々のことで変わることはないようだった。
風香は、杉下老人に一瞥して、踵を返してカウンターの奥に引き下がった。そして、かわりにマスターが表に出てきて、杉下老人のところにやってきた。
マスターを送り出した風香は、またカウンターの武明の正面にやってきて、荒いものを始めた。少しして思い出したようにマスターに、
「マスター、私お買い物に行ってこようかと思うんですが」
時計はちょうど午前九時を指していた。
近くのスーパーは午前九時から営業をしているので、まるで待っていたかのような風香の言葉だった。
「そうだね。じゃあ、今のうちに行ってきてもらおうか」
と言って、風香に目配せをした。風香もニコリと笑顔で頷いて、武明を見た。
「須藤さん、もしよろしければ、ご一緒しませんか?」