柿の木の秘密
意気揚々と井戸から出てスキップでもするかのように井戸を囲んでいる森から出てみた。するとそこは見たこともない世界が広がっている。三百年も経っているのだから当たり前のことだ。
「ここは、俺の居場所ではない」
男はそう感じ、
「さっきの井戸に戻りたい」
と思い、踵を返そうとしたその瞬間、身体の自由がまったく利かなくなった。
「俺はどうなってしまったんだ?」
男は石になってしまった。
その時に感じたのは、
「振り返ってしまったことが命取りだったんだ」
今度こそ、男は石になって死んでしまった。しかし、それは三百年も生きてきた男にとっては、寿命だったと思えば何ら不思議のないことだ。
男がどんな思いで死んでいったのだろう? その思いを考えるのは難しいことなのだろうが、武明は今なら分かる気がする。
「人間なんて死んでしまえば皆同じなんだ。思い出なんかあってもなくても一緒さ」
と思った。
世の中にある宗教は、そのほとんどが、
「死後の世界で幸せになるため、この世で修行しているようなものだ」
と思っている。
ということは、
「この世では幸せになれないので、あの世で幸せになることを祈る」
それが摂理ではないか。
子供の頃に見た映画で、子供の頭でそこまで考えられるとは到底思えない。映画の印象が深く、成長するにつれて、最初は分からなかったことも、次第に思い出しながら考えることで少しずつ考えが固まってくる。
特に夢を見た時など、普段ではできない発想を夢の中で育むことで成長させていくことは可能だろう。
しかし、夢というのは
「潜在意識のなせる業」
という言葉があるが、実際にこの世でできないことを夢とはいえ、想像することはできない。そのために、過去に見た映画の内容を自分に置き換えてみることで、不可能だと思えることを可能にできる発想を持つことができるのだろう。
夢と映画と現実と、それぞれに思い入れがあって、別の次元で考えていたものが、どこの世界で一緒にすることができるのか、夢だと思っていることが現実だったり、現実だと思っていることが夢だったりすることで混乱する自分の頭を冷静にすることができるのも、それぞれに違った発想の中にも、必ず共通点があるからだ。
「もし、そこに自分以外の誰かが関わっているとすれば?」
普通に考えれば、そんなことはありえない。しかし、考えていく中で、人は誰かを意識しなければ生きていけない時期というのは、絶対に存在している。
武明のように、誰も意識しないようにしながら生きていこうと思いながらも、隣の老人が気になったり、綾乃や風香が気になったりしているのはそのためだろう。
肉親に対しては、まったく「意識する」という感覚はなかった。
自分が意識するよりもまわりが意識している。しかも、子供や家族のためという思いではなく、まずは自分のためから始まっている。
「親や家族というのは、そんなものではないぞ。自分よりもまず子供だって思うものさ」
ということを言う人がいた。
当たり前のことを当たり前のように説教しているが、当たり前だと思っている人には通用しても、疑問を持っている人には通用しない。
「そうですか」
相手の押し付けがましい説教を軽くかわしても、相手はそのことに気づかない。それだけ自分の説教に「酔っている」のか、それとも当たり前のことを話しているのを分かっているので、相手も当たり前に聞いているはずなので、軽くかわされても、悪いことだとは思っていないのかも知れない。
井戸から出た男は、そこで寿命が終わっていたのだ。
いや、本当は井戸の中で寿命が切れていたのに、井戸の近くにいることで生きることができていた。井戸を出てしまうと、その神通力は消え失せてしまい、死は必然となるのである。
考えてみれば当たり前のことだった。
しかし、男が死んだのは、本当は後ろを振り返ったからではないだろうか。本当はそのまま何も考えずに元いた世界に戻ることだけを考えていれば、少なくとも、未来の世界に戻ることはなかったのかも知れない。三百年などという時間は、彼が井戸の精だった時期に過ごした時間ではなく、本当はもっと短かったのかも知れない。錯覚を植えつけられたのは、男が元の世界に戻っても、この世界のことを話すか話さないか、それを確かめるための、三百年という期間を頭に植え付けたのかも知れない。
だから、男が本当の三百年後の世界を垣間見た時、元の井戸に戻ろうとしたことが、男の命運を尽きさせることになったのだろう。
もし、振り返らずに元の世界に戻れたら、彼は井戸の精だったことを忘れて、井戸の精になる前の自然な自分に戻っていたかも知れない。そう思うと、
――彼のような井戸の精は、結構たくさんいるのかも知れないな――
と感じてしまう。
同じ時代に数人が存在していたとしても、不思議はない気もしている。同じような井戸が世界にはいくつもあって、人間を惑わしている。それが何のためにされているのか分からないが、井戸というものに興味を示す人間がいれば、その人はいつでも井戸の精になることができる。そんな危険性を孕んでいると思うと、映画を見たという記憶だけで、よくもここまで発想できると感じる自分も、
「本当は以前、自分も井戸の精だったのかも知れない」
と感じてしまった。
――まるで堂々巡りを繰り返しているようだ――
井戸の精だった記憶などあるわけはないのに、井戸の精の発想は忘れることができない。そう思うと、自分は本当に生きているのか、それとも意識だけの存在で、肉体と切り離して考えることもできるのではないかという勝手な想像すらしてしまっていた。
武明は今でこそいろいろな発想を思い出していたが、以前から一つだけ井戸の話と繋がっているという意識もない中で、目を瞑れば浮かび上がってくる光景があった。その光景というのは、
――白骨死体のオブジェ――
だった。
まるで本当の山のようになった白骨死体。歩いて登ることもできそうなのだが、それが白骨だと思うと、どうしても越えることができなかった。
「白骨を超えていくということは、その向こうに広がっている世界というのは、死の世界以外の何者でもない」
と考えていたからだ。
別に武明は死というものを怖いと思っているわけではないが、
「死んでしまうと、もう何も想像することはできない」
と思うことが一番怖かったのだ。
老人と引きこもり
とどまるところを知らない想像を巡らせていた武明は、ふいに我に返った瞬間があった。その瞬間というのは、夢と現実の狭間を感じた時で、夢を見ている時に感じることはないが、目が覚めている時に急に感じることがあった。
――起きていても夢を見るんだろうか?
その夢は、実際の世界の中で、ふいに感じる矛盾が悟らせてくれる。その時に感じるのは、
――起きている時に見る夢は、現実世界の中では、堂々巡りを繰り返している――
と感じることだ。