柿の木の秘密
杉下老人の姿を見なくなってから二週間が経った頃そんな時だった。綾乃に対してはまだ興味が薄れる前だったので、家にいる時と、喫茶店に来てからの自分は、まるで別人のような気分になっていた。
「ねえねえ、須藤君。須藤君はじーっと人のことを観察したことってある?」
風香ちゃんからそう言われて、ドキッとした。
まるで自分が隣の庭の縁側を観察しているって分かっているかのように感じたからだ。
そんな様子を見て、
「いやあね。そんな怖い顔しないでよ」
きっと目をカッと見開いて、風香を見つめていたのだろう。我に返った武明は、
「あ、ごめんごめん。急にそんなことを言い出すので、少しビックリしてね」
というと、無邪気な表情をそのままに、視線だけは興味本位で武明に向けていた。
「ごっくん」
思わず、喉を鳴らした武明は、風香の視線に、オンナの色香を感じてしまったようだ。
今までは女の子としての無邪気さばかりを見ていたはずなのに、オンナの色香を見てしまうと、風香のことが忘れられなくなるのではないかと思えてきた。
しかし、その時急に、隣の家の綾乃の顔が瞼の裏に浮かんできた。風香に見つめられながら、自分が別のオンナを想像しているなどということを看破されたくないと思い、思わず目を逸らした武明だった。
「どうしたの?」
あどけない笑顔を浮かべていたはずの風香の顔に、ふいに不安がよぎったように見えた。
「風香ちゃん」
質問には答えず、なぜか名前を呼んでしまった武明は、急に恥ずかしくなった。真っ赤に紅潮した頬がはちきれんばかりになってくると、目尻の下にしわができてくるのを感じた。そのしわは痛みを伴っていて、明らかに普通ではない表情をしているのが分かっているのに、それがどの感情からきているものなのか、まったく分からなかった。
武明は、感情は豊富だと思っていた。表に出さないので、他の人に分からないだけではなく、自分でも分かっていない。どんな感情を抱いた時、どのような表情になるのか分からないのだ。
――他人だったら分かるのに――
自分の顔は、鑑のような媒体を通さない限り、見ることができない。他の人の顔は見ることができるのにである。
時々武明は自分が無意識に何かを考えているのを感じているが、本当は何かを考えているのではなく、自分がその時、どんな表情をしているのか、想像しているのだ。
そのためには、自分を客観的に考えなければいけない。他人から自分を見ているような目を持たなければ、自分の表情を想像することなどできない。
自分が何を考えているかということと、自分が今どんな表情をしているかということは、同じ次元で考えるべきことだと思う。しかし、この時の武明は、自分が何を考えているかということは二の次だった。まずは、自分がどんな表情をしているかということが大切だった。
自分の表情を想像することで、その後に自分が何を考えているかということを考えることはできるが、逆に何を考えているかが分かったところで、その時の表情を想像するのはできっこないと思っていた。
その時の風香は武明が自分から何かの結論を導き出すまで、根気よく待ってくれていたようだ。ただ、その時の目力は他の人には絶対に感じたことがないほど強いもので、まるで無言のプレッシャーを受けているようだった。
だが、自分の表情を想像するには、それくらいのプレッシャーが必要なのかも知れない。
「須藤さんは、本当に素直なんですね」
武明が何となく自分の表情を垣間見た気がしたその時、風香は言葉を掛けてくれた。
そのタイミングは絶妙で、入り込んでしまった自分の世界の殻を、風香の一声が破ってくれたのだ。
「素直って言われるのが一番嬉しいよ」
その言葉にウソはなかった。
しかし、それはその時までで、それ以降、素直だと言われると、何かバカにされているように感じるようになっていた。自分が素直と言われて喜ぶことへの引導も、その時の風香が渡してくれたのだった。
それから一ヶ月が経った頃だった。
武明が綾乃に飽きを感じてきた頃で、綾乃への興味が薄れたことで、今度は風香への重いが強くなってきたことを感じていた。
――綾乃さんと風香ちゃんでは、まったく別人のような性格なのに、俺にはどうしても別の次元で考えることはできない――
と感じていた。
――もし、風香ちゃんが隣の縁側に佇んでいたら、どう感じるだろうな――
と、武明は思った。
――きっと、すぐに飽きるかも知れない――
綾乃の場合は最初からあの場所からスタートしたのだ。相手のことを少しだけ知った上で、その人があの縁側に佇んでいる姿を考えてみると、じっと見つめていることに疲れてくるに違いないと感じたのだ。
「そういえば、私ね。子供の頃に井戸に落ちかけたことがあったの」
と、出し抜けに風香は言った。
「どういうことだい? 井戸なんて残っている家と言えば、田舎の旧家でもなければないような気がするんだけど?」
「ええ、でも確かに私の中の記憶にはあるのよ。それがどこだったのか、いつ頃だったのかということは、ハッキリとしてはいないんですけどね。でも、人はそんな記憶を一つや二つ持っているものなんじゃないかしら?」
と言われて、武明も考えてみた。
「なるほど、確かにそうかも知れないね。でも、今の僕は急に言われて思い出すことはできないような気がするな」
人から言われなければ、思い出したかも知れない。
それも、ちょうどその時にふっと思ったような気がする。もし、その時自分の方が先に何かを思い出し、風香に告げたとすれば、風香は井戸に落ちかけたなどという記憶を思い出すことはなかったかも知れない。
しかし、その時武明が感じたのは、綾乃のことだった。
綾乃が柿の木をじっと見つめながら涙を流している姿である。
ここしばらく、ずっと見てきた綾乃に、涙を流すなどという雰囲気はまったく感じられなかった。涙どころか、哀れみを感じさせるその表情は、明らかに上から目線で、自分が殺した相手に哀れみを感じているかのようなイメージだった。
他の人なら、人を殺した人が、殺した相手に対して哀れみの表情を浮かべるなどというシチュエーションを感じることはないだろう。
今までの武明なら他の人と同じ発想だったに違いない。
――綾乃と風香の間には結界があり、その結界を通して二人を同じ次元で見ることができるのは、自分しかいない――
と、武明は思っていた。
風香が、
「井戸に落ちそうになった記憶が残っている」
と言ったのを想像していると、それまで想像もつかなかった庭にある井戸を想像することができた。
その井戸は、人の家ではなかった。どこかの裏庭にある空き地にある井戸で、その奥に生い茂っている森が、日の光を遮断して、昼間でも真っ暗な光景であった。
――家の近くにあった神社の裏庭だ――
子供の頃には確かにあった井戸だった。