柿の木の秘密
目の前の柿の木が移動するなど考えられないことだ。一度移動して、また元に戻ったのか、さっきと位置はまったく変わっていないように思えた。
そんなことは当たり前のことだった。
――一瞬の錯覚――
人には誰にでもあることで、
「よくあることさ」
と考えている人も少なくないだろう。
武明は、そんな一瞬の錯覚を今までに何度もした覚えがあった。特に子供の頃に多かったことで。大人になってあらためて考えてみると、
――あれは、記憶の間に別の記憶が嵌り込んでしまったことで起こる、事後の錯覚なのではないだろうか――
と感じていた。
つまりは、実際に見た時に錯覚を感じたわけではなく、記憶の中に収まった時に、その記憶を思い出そうとして、他の似た記憶まで引き出しから持ち出してしまったことで、時系列を無視した意識が働いてしまい、微妙と思えるような記憶の錯覚を、事後において感じさせるものではないかということだ。
――錯覚なんて、案外そんなものなのかも知れないな――
と、感じた。
――あまり深く考えすぎない方が理解できることもある――
この思いは、錯覚を解決するために至った自分の考えだったが、誰にも話したことはなかった。
しょせん誰かに話しても、信じてくれる人は少ないと思った。これを口にする人が有名な学者さんだったりしたら信憑性もあるのだろう。しかし、自分のような一般人の話など誰がまともに聞いてくれるというのか、友達だとしても、どこまでまともに聞いてくれるか分かったものではなかった。
人に対しての不信感は、親に対しての不信感から生まれたものだ。そういう意味でも自分が引きこもりになった理由は親に責任があると考えるのも無理もないことだ。
「そんなのはただの責任転嫁だ」
と人は言うだろう。
しかし、それはただの一般論であって、その人それぞれの状況によって変わってくるというものだ。一般論を話す人の多くは、
――しょせん他人事なんだ――
と考えている人が多く、そんな人に自分の気持ちなど分かってたまるものかと思っていた。
そもそも、そう感じさせたのも、親であり、元凶が親なら、発想の起点も親である。そう思っている人に責任転嫁を解いても、
「釈迦に説法」
というものだ。
一般論を公然と口にしている人を見ると虫唾が走る。
「偉そうなことを言っても、しょせん机上の空論でしかない。実際に苦しんでいる人の近くで一緒に身になって考えてやったことがあるのかよ」
と言いたかった。
もし、そばにいれば、相手は毛嫌いして寄せ付けない雰囲気を作り出すことになるだろう。そんな時、一般論でどこまで言い訳ができるのか見ものである。ここからが、一般論を言う人のごまかしの真骨頂と言えるのではないだろうか。
杉下老人が気にした後ろに佇んでいたのは綾乃だった。立ち竦んでいたわけではなく、座って三つ指をついている雰囲気である。どこかにお使いにでも行っていて、帰ってきたという雰囲気だった。
もうその頃には、綾乃が出かけたのを意識して追いかけたりしなくなっていた。やはり武明には相手がどんな人であっても、飽きがこないわけはなかったようだ。
――それにしても早かったな――
綾乃に関しては、そんなに早く飽きがくるとは思っていなかった。むしろ、
――この人なら、飽きが来るということはないかも知れない――
と思っていたほどだったが、やはり飽きがやってきたことを思うと、飽きが来るために何かきっかけがあるということに間違いはないように思えた。
飽きが来るというのは、字が示すように、気持ちが飽和状態になったことから起きるものであるのは間違いないようだ。
「もう食べられない」
一気に食べ過ぎて、見るのも嫌になるという感覚、そして、毎日同じものを食べることで次第に身体が慣れてきてしまい、見るだけでお腹が満腹になることで感じるようになる飽きというもの。そのどちらも普通の人なら経験があると思うのだが、武明には、一気に食べて、それ以上食べられないという記憶はなかったのだ。
確かに好きな食べ物は子供の頃からあり、
――腹いっぱいに食べてみたい――
という欲求は持っていた。
しかし、食べているうちに、
「もう食べられない」
という感覚になったわけでもないのに、食べるのをやめていた。
見るのも嫌になったわけでもない。なぜやめてしまったのか自分でも分からない。ただ、無意識のうちに、
――これ以上食べると、吐いてしまう――
という思いに至っていたのではないかと、後から思うと感じるのだった。
――俺って、そんなに聞き分けのいい子供だったんだろうか?
欲求を抑えたという意識はないのに、達成半ばでやめてしまうという心境は、今となっては分からない。
ただ、嘔吐したことは実際にはなかったはずなのに、その苦しさを知っているかのごとくに怖がっていた。今までに味わったことがないはずなのに、経験があるような錯覚に陥るというようなことは、武明には何度かあったのだ。
――それが今の俺の性格を形成しているのかな?
という思いがあり、綾乃という女性は今までには知らないタイプだと思っていた感覚が、実は錯覚ではなかったのかと考えるようになっていた。
老人が毎日のように縁側を見ていることに、何ら違和感のなかった武明だが、ある日、急に飽きを感じるようになった。今までずっと見てきた相手に対し、いまさら飽きを感じるなど、おかしな話ではあったが、それは、今まで老人がそこにいることをまったく不自然に感じなかったからだ。
それなのに、ある時、その老人がその場所にいないことの方が自然な感じがした。
――ここには最初から、誰もいなかった――
と思うのが自然な気がしてきたのだ。
――あんな老人、本当にいたのかな?
という思いまで抱くほどになっていたが、縁側は老人が佇んでいる時と、まったく変わっていない。
老人の姿を見なくなって一週間くらい経った頃だっただろうか。綾乃が縁側に姿を現した。老人が佇んでいた決まった時間、来ないとは思っていても、ついつい気になって縁側を覗いていた武明の目に、その場に佇んでいる綾乃の姿が飛び込んできたのだ。
老人がいた時と変わらず、まるでその場に以前からいたのは綾乃だったのではないかと思わせるほど、実に自然な佇まいだった。
老人がこの時間に縁側に来る時は最初から武明がずっと見ていたので、老人がいつも同じ時間に来ることは分かっていた。しかし、老人を見かけないようになって数日後から、元々飽きを感じていたこともあり、いつも老人が来ていた時間に合わせるように、縁側を見ていたのだ。
「今日もいないか」
いないことを確認し、ホッとした気分になる。
もし、その場にいたとすれば、また毎日今までと同じように老人の様子を窺わなければいけないという使命感が湧き上がってくるのだ。
嫌なはずなのに湧きあがってくる使命感ほど辛いものはない。ホッとした気分になるのも、無理もないことである。
しかし、肝心なことを忘れているのではないか。いや、忘れているというよりも、意識して考えないようにしていると言った方が正解かも知れない。
――一体、老人はどこに行ったというのだろう?