柿の木の秘密
息子夫婦がいなくなって最初は寂しさを感じていたのだと思っていたが、綾乃が来て、今少し変わり続けている中で感じたのは、息子夫婦がいなくなって、せいせいしているのではないかと感じたことだ。だが、綾乃が来たことで変わってきた雰囲気の中に、息子夫婦がいた時の雰囲気は微塵も感じられない。今ではさらに解放されたような気がしているのは、相手に馴染んだからなのかも知れない。ということは、杉下老人は、肉親に対して窮屈な思いを感じていたということになる。
――それじゃあ、俺と同じじゃないか――
と感じた。
杉下老人にとって綾乃は、今までずっと肉親以外の誰とも接することのなかった長い間の空白を埋めてくれる救世主のような人になったのかも知れない。
綾乃と杉下老人との間は寡黙だった。少なくとも縁側から見ている限りでは、会話らしい会話を見たことはない。発する言葉も単語であり、後は忖度するだけのことであった。二人の間に存在するのは無言の会話であり、無言なのにどこからその意図をくみ取るのか、武明には分からなかった。二人はあくまでも無表情、たまに笑顔を浮かべることはあっても、それ以外は表情を決して変えようとはしなかった。
杉下老人は前から見ているので、無表情には慣れたものだったが、綾乃のような女性の無表情には、あまり馴染みはなかった。学生時代に誘惑してきた先生も無表情なところがあったが、それは武明から見ると、大人の色香だけではなく、自分に対しての露骨な誘惑を、他の人に知られないようにするための意識が働いていた。
――綾乃にも、杉下老人に対して、そんな気持ちがあるのだろうか?
武明は想像してみたが、すぐにピンとくるものではなかった。お互いに目を見つめ合うだけで分かることがあるのだとすれば、それを他人が気づくことはまずない。そんな二人の関係は、武明になら分かる気がしたのだ。
綾乃が来てからの杉下老人は、雰囲気は変わってはきていたが、行動パターンに変化はなかった。相変わらずいつもの時間に縁側に出ては、庭を見つめていた。その視線の先にいつもあるものは、一本の柿の木だった。
――どうして、他には何もないのに、柿の木だけが存在しているんだろう?
庭のレイアウトとして、何もない中に柿の木があるだけの風景は決して違和感を感じさせるものではない。しかし、それは武明だけのことであって、他の人から見ると、違和感がありありなのではないかと思えていた。
何に違和感があるというのだろう?
武明は自分が見ている角度からだと違和感がないだけだと最初は思っていた。もし少しでも違う角度から見れば、違和感を感じることもあるかも知れないが、最初にこの角度から見た光景が頭の中に残っている以上、少しでも角度が変われば違和感を感じてしまうのは仕方のないことだと思っていた。
だが、違和感を感じないのは、杉下老人が自分を意識していないからだと思うようになった。老人が、自分の見られていることを知ると、意識が柿の木だけに行くものではなくなることを考えると、まず庭の広さから、武明の中での感覚が変わってくる。下手をすると、今見ている柿の木の位置が違って見えてくるかも知れないとさえ思うのではないかと感じるほどだった。
――だけど、俺もどうして柿の木をそんなに意識するんだろう?
確かに、庭には柿の木しかないので、庭を意識していると嫌でも柿の木を意識しないわけにはいかない。しかし、柿の木を意識するのはそれだけではないような気がする。
――何か過去において、柿の木と俺の間に因縁があったのだろうか?
何とか思い出そうとしていた。
――そうだ、あれはいつのことだったか思い出せないが、確か柿の木の前に土管のようなものがあって、そこでかくれんぼをしていたような気がしたな――
という記憶が残っていた。
あれはやはりまわりに何もない空き地でのことだった。整備されている児童公園で遊べばいいのに、なぜ自分がそんな土管のあるような昔にしかなかったはずの空き地で遊んだ記憶があるのか、自分でもよく分かっていない。ただ、記憶にあるだけなのだが、それがいつのことだったのか分からないにも関わらず、思い出してくると、まるで昨日のことのように感じられるから不思議だった。
何がどうなったのか、その日、土管の中で一夜を明かした武明だったが、土管から出てみると、そこに見えるのが柿の木だった。
「こんなところに柿の木なんかあったかな?」
しかも、実が生っているいるわけではないのに、よく柿の木だと分かったものだ。武明は今までに柿の木を意識したことはなかったはずだ。思い出した記憶も思い出さなければ、柿の木を意識したことがあったなどと考えることはなかったに違いない。
土管から出てしばらく柿の木を見上げていたが、我に返るとそのまま家に帰ったような気がする。その日、親からこっぴどく叱られた。
「お前は一体どこに行っていたんだ。心配させやがって」
と罵声を浴びせる父親を、
「まあまあ、お父さん、無事だったからよかったじゃないですか」
と、警官が宥めるほどだった。
両親はいなくなった息子を探してもらうように警察に届けていたのだ。まさかそんな大げさなことになっているなどと思ってもいなかった武明に、いきなり罵声を浴びせてきた父親の言葉は、怒りともショックともつかないもので、ただ、その場に立ちすくむだけしかなかった。
金縛りに遭ってしまった気がしていた武明を見て、完全に委縮してしまっていると感じた警官は、ビックリして止めに入ったのだろう。しかし母親は何も言わなかった。武明が何も考えていないのが分かったからではないだろうか。元々武明はどんな時でも何かを考えている少年だったので、何も考えていない時というのは実に貴重でレアなケースだった。母親はそれを分かっていて、ただじっと武明を観察していたのではないだろうか。
どこに行っていたのか、結局詳しくは聞かれバカった。武明もそれからすぐに何かを考えるようになったのだろう。それからの記憶は曖昧だった。
だが、一つだけ言えることがあった。
「ここにあったはずなのに」
土管のある公園に少しして行ってみた。そこに土管は存在していたのだが、柿の木は消えていた。土管がなくなっているなら理屈も分からなくもないが、柿の木が消えているなど考えられない。もちろん、土の状態も見てみたが、最近まで何か木が植わっていたものを引っこ抜いたような跡は、どこにも見当たらない。
――あの時に見た柿の木は幻だったのだろうか?
という記憶だけが最後に残った。
ただ、その記憶がいつのことだったのか、それはどうしても思い出すことのできないものだったのだ。
杉下老人が庭先から見つめる柿の木、そして、向かいの部屋のベランダから見下ろす形になる柿の木、そして記憶の中に存在している土管の中から見上げた柿の木。それぞれに武明には三本の違った柿の木が存在しているように思えてきた。
じっと柿の木を眺めていた杉下老人は、後ろに気配を感じたのか、一瞬柿の木から視線を逸らした。
その瞬間、一瞬だけのことだが、柿の木が移動したような気がしたのは、気のせいだったのだろうか?