短編集5
私がこの店の馴染みとなるにつれ、歳を感じなくなった。それはこの店の中だけで、ここでは自分が若返ったような気分になれる。
私がその話をすると、
「皆さん、そうおっしゃいますね」
マスターは笑いながら話してくれた。
「最初この店に来た時、他の人から噂されているといった被害妄想にとらわれていましたが、通ってくるうちに、それが気のせいだということに気がついてきましたね」
「そうですか。ここで自分のことを見つめ直すことができたからかも知れませんね。最初に入って来られた頃に比べると、かなり顔色が冴えてきましたよ」
そういえば、初めてこの店に来た頃は、鬱状態だったかも知れない。とにかくまわりのことがとても気になるタイプにもかかわらず、優しくされることさえ億劫となり、かといって孤独から逃れたいという矛盾した気持ちになる。そんな気持ちの中でこの店に初めて入ったのではなかろうか?
躁鬱症である私は、鬱状態になる時というのが分かるのだ。どんなに機嫌のよい時でも鬱状態が近づくと軽い胸焼けのようなものに襲われる。
最初は胃が荒れているのではないかと思うほどだったが、それとは微妙に違うのだ。胃薬を飲んでもすっきりするものではなく、もし胸焼けが治ったとしても、ムズムズした感覚だけが気持ち悪く残るのだ。
「あ、まただ」
どちらかというと馴れ馴れしいくらいにこちらから話し掛け友達を増やしてきた私は、人と話すのが嫌いではない。それだからこそ、噂話には人一倍敏感なのでは? と思うほどである。だが、一旦鬱状態に入りかけると同じように話をしていても、相手の声のトーンを微妙に高く感じてしまい。それが却って辛くなる。
気が弱くなっているのだろう。被害妄想が強くなるにつれ、噂話に敏感になるのかも知れない。
だが本当に鬱状態に陥ってくると、噂話がそれほど気にはならなくなってくる。自分の中で感覚が麻痺してきているからかも知れない。しかしそんな鬱状態がいつまでも続くわけではなく、それがどれだけの間続くものか自分の中でしっかりと把握している。
この店に初めて来た時がちょうど鬱状態への入り口だったのだ。
だが、不思議なことに店以外のところでは鬱状態に陥っていたのに、翌日、無意識にこの店に入った時に鬱状態ではなかったことは、皮肉だった。それはこの店の中だけのことで、一歩表に出ればすぐに逆戻りしていた。
鬱状態になると、無意識に動くことがある。
気がつけば今回みたいに、この店の扉を開いていたりするのであるが、きっとそんな時は勘が冴えているのかも知れない。
今日私はこの間ここで読まれていた安川小次郎の『ミラー・コネクション』を買ってきた。ここで読もうと思って買ってきたので、さっそく開いて読むことにした。
そういえば、本を読むことが好きな私は最近、文庫本を開いた記憶がない。
中学時代までは文章を読むことが億劫で、いつも国語の点数は最悪だった。算数や数学などのようにさっさと計算し答えを求めることができないからであるが、実はもうひとつ問題があった。
数学などだったら、最初問題にざっと目を通し、難しい問題は後回しにできるのだろうが、国語の文章題はそうもいかない。文章をまず根気よく読んだことが前提になっての出題なので、時間配分ができないからだ。元々、決められた時間というものをいかに効率よく使うかということを常に考える私としては、国語ほど苦手な教科はなかったのだ。
しかし、高校に入り、仲間うちでミステリーブームがあった時だった。読んでいないと話に参加できない手前、嫌でも本を読むようになった。嫌々読んでいるので、文章のほとんどを読むようなことはなく、セリフを中心にしか読んでいなかった。そのためか読み方も浅く、仲間との話もどこかぎこちなく苦しいものがあった。
友達と読んでいたミステリーは、昔のものが多く、どうしてもセリフよりも状況を描写する内容が多くなり、どちらかと読みにくいものだった。逆にそういう難しい本から入ったからであろうか。その後に読み始めた現代ミステリーがとても読みやすく、セリフ以外の描写も苦もなく読めるようになっていたのだ。
それからであろう。私が本をよく読むようになったのは……。
心に余裕を持ちたい時、自分の世界を作りたい時に、いつも本を開くようにしている。自分の心に余裕を持つ結果に繋がることが、読書の醍醐味だと思っている。そう考えるようになった頃には、ミステリー以外でも、ホラー、サスペンス、恋愛ものといったいろいろなジャンルの本も読破するようになっていたのだ。ただ、なぜか安川小次郎という作家だけは別で、今まで読もうという気もしなかったのだ。
少しドロドロしたところのある作風だと聞いていたので、敢えて避けていたのだが、それは表紙のインパクトから来ていたのかも知れない。だが、その日はなぜか『ミラー・コネクション』が気になり、さっそく買ってきた。もちろん、本を開く席は最初にその本を開いている男を見たその席である。
あっという間に読んでしまった。
時間にして二時間程度だろうか? 最初は何となく取っ付きにくい内容だったが、それも今まで敬遠していただけに仕方がない。いつの間にかストーリに引き込まれていて気がつけば読み終わっていた。
「あれ?」
しかしどうしてなのだろう? 読み終わるとせっかく読んだ内容をすべて忘れてしまった気がする。それも読み終わった瞬間にであるが、それでも最後に読み終わった満足感を味わうことができたのは却って不思議な気がした。
――読んでよかったのだろうか?
後悔ではないのだが、ぽっかり空いたような気がする頭の奥が納得していない。
それほど簡単にスラスラと読める内容ではないはずだ。その証拠に、途中まで読んでは最初の方に戻ってみたりなど、そういう読み方をしていた。それにもかかわらずたった二時間で読めたのは不思議で仕方がない。
元々読み進んでいく中で、ストーリーに入り込むタイプであった。自分を主人公なり登場人物に置き換え読み進む。そうすることで本の世界に入り込む自分を感じることができる。
そうしないと、文字の羅列を読んでいくだけでは、すぐに前の展開を忘れてしまい、時として違うことを考えがちになっていることがある。内容を読みながら想像するのだが、読み進んでいくうちにそれが違う発想へと変わっていけば、得てしてそういう結果に陥ってしまうこともありうるのだ。
――ストーリーに入り込む――
これは今まで自分でも自覚のあったことだ。
だから読書は楽しいのだし、普段億劫に思っていても読み始めると止まらなくなる。自分の中で整理さえつけば読書は自分のためにもなるのだ。
だが……、
元々入れ込みやすいタイプの私に安川小次郎という作家の作風はきついものがあった。決して読みにくいという本ではない。ただ、今までの自分が読んできた、さりげなく読めるような本とはわけが違うのだ。
他の人のさりげなく読める本は、読み込んでいくうちに自分が本の世界に入り込んでいくのが分かるのだ。どのあたりまで読み込めば入り込みやすくなるのかは、少々ジャンルの違う本であっても分かっていた。