短編集5
目を開けると目の前の男は微笑みながらこちらを見ている。その表情を見ていると、まるで何でも見透かすことのできる千里眼を感じさせるような誇大妄想を浮かべる自分を抑えることができなかった。
「お待ちどうさまでした」
「どうもありがとう」
アイスコーヒーを運んできたウエイトレスにそういって微笑みかけていたが、リアクションもまるで自分だった。
男がグラスを手に持ち、ストローを口に持っていく。見るとその人は左利きであった。
どちらかというと、左利きか右利きかということに昔から敏感な方だった。しかし、彼が左利きだと分かるまでに今回は時間が掛かった。
――なぜだろう?
気にして見つめているつもりだった。相手はそんな私に気付いていないのか、こちらを意識する素振りを見せない。初対面なので、その男の人の普段がどうなのかまではっきりと分からないが、明らかに態度は自然だった。その証拠に、動作の一つ一つに余分な「遊び」部分がなく、いかにもしなやかな自然な動きをしていた。
いつも他人を観察する時というのは、必ず自分にその行動を当てはめてみる。
もちろん違う人間なのだから、当然行動パターンだって違うだろうし、中にはぎこちなく感じるところも出てくるはずである。
しかし、どうしてなのだろう? 目の前の男の人に限ってぎこちなさを感じることもなく、見つめていられた。
いや、自分が見つめているということすら忘れてしまうほどの、さりげなさに見入ってしまい、ふっと我に返った時に初めて彼が左利きであることに気付いていたのだ。
私が我に返って見つめたその時、目が合ってしまった。
まるで金縛りにあったかのように見つめている私に対し、どうやらその人も初めて私の視線を感じたのか、しばしお互い見つめ合ってしまっていた。私は思わずその人の目の奥を見つめていた。視線が目から離れない以上、目の奥を覗いてみるのも自然の摂理に違いない。
何か白いものが揺れているのが見える。
光が当たって黒い瞳の中にさらに小さな白い輪ができているが、揺れている白いものはその輪の中で確認することができる。
――ススキ?
そう感じてしまうと他のことを感じることができなくなった。高原で揺れているススキの穂、その中を彷徨っている一人の男、まるでそのまま吸い込まれてしまいそうな錯覚を抑えるのに必死だった。
――夢の中にいるみたいだ――
この感覚はまんざら嘘でもない。
目を瞑っても同じ光景が飛び込んでくるだけで、気がつけば、ススキの穂の中にいる自分がいわし雲の外を必死で見ているような気分になっていた。まるで男の目の中に自分を見ていたのである。
「それは君じゃないよ」
どこからか風に乗って、声のようなものが聞こえてきた。すると目の前の男はすでに目を下に向けていて、文庫本を見ていたのだ。
最近、有名な文学賞を受賞し、本屋の店頭で大々的に宣伝されている「安川小次郎」という作家のベストセラーだった。
タイトルは『ミラー・コネクション』、どうやらホラー関係の作品のようなのだが、興味もないので、私は本を開いたこともない。表紙のデザインもドロドロした内容を想像させ、私に向いている本だとはお世辞にも言えなかった。
――こんな本をよく読むな。誰が買っていくんだろう?
といつも疑問に思っていたが、なぜか今目の前で男がその本を読んでいる姿に違和感はない。そのためか、今まで興味のなかったその本に対し、微妙に気にし始めたことを自覚していた。
男が本を読んでいる姿に違和感はないのは、むしろ以前に見覚えのあるくらいに感じるシチュエーションでもあった。一生懸命に読んでいるかと思いきや、時々顔を上げては横を向き、考え事をしているかのようである、何となく不自然な行動だが、ごく自然に見えてしまう自分が不思議だった。
気がつけば本を読む男に見入っていたためか、かなりの時間が経過しているようだ。さっきまでグラスの上にポッカリと浮かんでいた大きな氷が、時間の経過のおかげですっかり溶けてなくなっていた。何気なく手持ち無沙汰のため掻き回していたストローが勢いよく回っている。
しかし、どうしたことだろう?
私が入ってきて、それほど時間が経っていない間に来た男のアイスコーヒーの中の氷は大きなままである。確かに私のはストローで掻き回していたので溶けるのが早いのは分かるが、それでもこの氷山のような大きな氷が溶ける時間はかなり掛かるはずである。やはり不思議だ。
――私が感じているより、時間というのは掛かっていないのではないだろうか?
このことを最初に感じたとすれば、その時だったであろう。
それから私はちょくちょくその喫茶店に行くようになった。
最初の日こそテーブルに座ったが、二回目からはカウンターに座るようになった。そのおかげでマスターと話すようになり、常連の仲間入りを果たすようになった。
通い始めて分かったことだが、この店は結構常連客を抱えている。っというよりも常連客が支えているといっても過言ではないくらい毎日常連で賑わっているのだ。
「最初来た時はそんなこと感じなかったんですけどね」
私がいうと、他の常連客の一人が、
「そりゃそうですよ、私が初めて来た時も心細かったですね。妙にまわりの声が気になったりしてですね」
「ええ、私もちょうど他人の噂が気になっている頃だったですね。初めて来た時の頃は」
「あなたもですか。そういえば、ここの常連さんの最初はみんなそうらしいですね」
「えっ? それは驚きですね」
本当に偶然なのであろうか?
私の耳の奥で彼のセリフが反芻していた。
「ここでの常連客のほとんどの人は、もし他の場所で見たら分からないでしょうね。もちろん、それは私にも言えることでしょうけども」
「どういう意味ですか?」
「みんなここでは特別なんですよ。他では見せない自分を見せる。あっ、いや、本当の自分をここで見せているといった方が正解かも知れませんね」
何となく彼のいうことが分かるような気がする。
彼はさらに続ける。
「どうも、ここでまず最初に本当の自分というのを見るらしいんですよ。だからみんなここに来る時は連れはいないでしょう?」
そういえばそうである。必ず一人でやってきて、常連同士ここで話をしているか、そうでなければ自分の世界に浸っている。そこには、街中のコーヒースタンドのカウンターのような一種くらい雰囲気は存在しない。別に喫煙目的や、仕事の資料に目を通すといった目的ではないからであろう。
それにしても、本当の自分を見つめるとはいい表現である。
「そういえば、私が初めて来た時、テーブルの前の席に座った男の人がいたけど、あれから見ないな」
今から思えば、その人の行動パターンは私に似ていたのかも知れない。まるで、あれが本当の私だったのかも?
その証拠に、
「えっ、あなたが初めて来た時にテーブルの前の席はあいてましたよ」
とのマスターの反応にも、それほどの驚きはなかった。
「そうなんですか?」
私の静かなリアクションに、マスターはまるで納得したかのようにゆっくりと頷くだけであった。