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短編集5

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 手の平には汗一つ掻いていない。むしろ私の方が緊張からか、手の平はぐっしょりとなっていて、それを相手が分かっているだろうことが恥ずかしかった。
「今日はビアガーデン……、ないんですね?」
 私の言葉に対し、ふっと笑ったかのように見えた泰子は、
「ええ、もうビアガーデンはオフです」
 泰子の口元が怪しく歪む。
「ご一緒したのは、確か昨夜でしたよね?」
「いえ、だいぶ前ですわ。でも、私には昨日のことのように思えますけれど」
 そう言ってまたしても唇が歪んだ。
 彼女の真意はどこにあるのだろう? 会話自体は普通の会話である。社交辞令とも取れるセリフではあるが、表情といかにもアンバランスな感じが私には気になってしまう。
「そうですか? 私にはどうしても信じられないんですけど」
 その言葉に対し、泰子はただ頷くだけだった。
 風が少し吹いてきた。先ほどまではまったくの無風で、エレベーターから表に出てきた時に感じた暑さは何だったのだろう。すっかり冷たさを帯びた風に屋上は寒いくらいで、これではビアガーデンなどあろうはずもない。
「すっかり涼しくなりましたね」
 心なしか震えているように見える泰子の身体を思わず抱きしめていた。
 先ほど握った手の平と打って変わって、半袖から露出している白い腕は、とても冷たくなっている。
 震えがどこから来るものか、私には分からなかった。
 私に対しての怯えなのか、それとも何かを期待してのものなのか、私には後者に思えて仕方がない。
 何も言わず、抵抗もなくじっと震えているだけである。少しずつ冷たかった肌が温かみを帯びてきたのは、私の身体に慣れてきたせいかも知れない。
「暖かいコーヒーが飲みたいですね」
「どこか、おいしい店、ご存知ですか?」
 私も喫茶店くらいは知っている。しかし彼女に馴染みの喫茶店があれば、そこでもいいと考えた。
「うちに来ませんか?」
 彼女の震えが止まった。私の腕にもたれかかっていた頭を上げ、私を見上げる。その顔は私の知っている泰子であり、顔を見た瞬間、反対する理由が一切なくなった。
「よろしいんですか?」
 ただの社交辞令である。ダメなわけがないではないか。上気した頬がほんのりと赤み掛かって、瞳は漆黒の闇に包まれた中にあらんばかりの明るさを放っている月に照らされ潤んでいる。名残惜しそうに身体を離した泰子との間に、さっきまでは入り込む余地もなかった風が吹き込んできて、ちょうど気持ちいい。夢見心地の中に、ふっと引き戻された現実を感じたが、それさえも再度私の手を握り返してきた泰子の手の平の温かさに、またしても夢見心地に陥ってしまった。
 下りエレベーターの今度は早いこと、上りにあれだけかかった時間が何だったのだろうと今さらながら考えさせられる。
 再度泰子の顔を覗き込む。最初上ってきた時に見た彼女がなぜイメージが違ったのか何となく分かったような気がした。
 さっきの泰子には“表情”があったのだ。
 私に出会えて嬉しいような、それでいて何となく寂しそうな複雑な表情である。昨日ここで会った泰子にも表情はあった。しかしそれは私に対しての表情ではなく、自分の心の中が出している表情だった。しかし明らかに先ほどの泰子は、私に対し示した表情だったのだ。それだけに“平凡な女性”に見えてしまったのかも知れない。
 次に来れば分かるだろうか?
 自分の知っている道を歩いているはずだった。しかしなぜか初めて歩く道のようで、道幅すらいつもと違う気がする。どことなく違う雰囲気は、すでに夜の帳が降りてしまい、街灯の明かりだけが唯一の照明だからかも知れない。
 私と泰子の影が長く伸びている。そして歩くたびに揺れる影はそのうち二つのも三つにも広がっていき、まるでパノラマ映像を見ているような立体感すら感じてくる。
 昼間しか歩いたことのないはずのその道は、自分の感覚ではもう少し狭く感じていた。だが、よく考えれば反対ではないだろうか? 昼間が広く感じるのは分かるが、狭く感じるということは、やはり自分の知っている道ではないという錯覚に陥っても無理のないことかも知れない。
 私は手を繋いだまま、無言で歩いていく泰子についていくしかなかった。泰子が導く先には彼女の部屋がある。そこに待っているのは明るい部屋で泰子が入れてくれるコーヒーである。頭の中でコーヒーをイメージしてみた。
 いつも朝、出勤途中に喫茶店に寄る。駅の近くには数軒の喫茶店があるが、朝の七時から開いている店はそこだけだった。ファーストフードの店が二軒ほどあって、そこは出勤途中のOLなどが利用しているが、喫煙目的の人が多く禁煙派である私にとって、あまり見栄えのいい光景ではない。
 馴染みの喫茶店は、駅から離れていることもあってそれほど客はいない。しかしいつも同じメンバーの常連客で占められていて、座席もほとんど指定席化している。
 マスターは静かなタイプの男性で、アルバイトの女の子が客との会話に応じている。私も何度か話しをしたことがあるが、社交辞令的なところもなく、テンポのいい話し方が特徴である。
 真っ赤なエプロンがとても似合っていて、ロングの髪をポニーテールにし、まだ大学に入りたての雰囲気がある。
 彼女は私のことを「ハルさん」と呼んでくれる。
 店は馴染みの客で占められているとはいっても朝の喧騒とした時間の限られた余裕が持てる時間である。皆それぞれその時間を独自に使いたいのだろう。客それぞれが話すことはあまりない。ほとんどみんな新聞を読んでいたり、雑誌を読んでいる。いわゆる「普通の喫茶店」の朝の風景なのだ。
 最近彼女は休んでいる。
 マスターに聞くと夏休みで実家に帰っているということだが、そういえば休みに入る前何となくソワソワした中にウキウキしたように見えたのはそのためだったのだ。
 そういえば今日の泰子は昨日と明らかに違った雰囲気を持っていたが、初めて見る感じではなかった。それでいて何度も会ったことのあるような懐かしい雰囲気がどこから来るのか分からなかったが、やっと分かったような気がする。
 どうやらその懐かしさをいつも朝に寄るその喫茶店の女の子とダブらせてしまったようだ。あれだけ毎朝会っていた彼女が夏休みをとって実家に帰ってしまうと、たった数日でもかなり会っていなかったような気がして、気持ち的に懐かしくなっても無理のないことだ。
 しかし、彼女が店に戻ってきていつもの笑顔を私に見せてくれた瞬間、きっとそれまでの時間は一気に短縮し、毎日笑顔を見ていたような気になると思ってしまうだろう。それだけに泰子の笑顔を見た瞬間、懐かしさを最初に感じてしまったため、その懐かしさがどこから来るのかまったく分からなかった。
 最初に出会った時は「妖艶で不可思議な女性」というイメージがあった泰子だったが、今日は「親しみと懐かしさを滲み出させる女性」として私の目に写った。どちらも嫌いではないが、あくまでも気になっていた昨日の泰子のイメージが強すぎて、今日の泰子に物足りなさすら感じてしまう。
 それは一瞬だった。
作品名:短編集5 作家名:森本晃次