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短編集5

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 その日私はどこをどのようにして帰ったのか覚えていない。ほどよい酔いが私を包み、それが睡魔となって容赦なく襲い掛かってきたのだろう。しかしいくらどんなに酔っていようとも確実に家に帰り着くのだから、人間の帰巣本能というのもなかなかたいしたものである。
 さすがに爽快な目覚めというわけにはいかなかった。それほど豪快に呑んだという記憶はない。会話に気を取られていて気が張っていたので、豪快に飲むわけがない。どちらかというとその場の雰囲気に飲まれてしまったと言った方が正解であろう。
 酔いというものはその場の雰囲気でかなり変わるものだ。しかしそれが翌日の目覚めに影響するなど今までにはなかったことで、私自身面食らっている。
 そんな時こそ何も考えず、気分を落ち着かせることだけに集中すればいいのだ。得てして吐き気や頭痛のある時ほど余計なことを考えてしまい、さらなる悪循環をよぶということが無きにしも非ずだからだ。
 気分を落ち着かせるように心掛けると、自然と気分がよくなってきた。スーっと肩の力が抜けてきて、頭が爽快になってくる。これ以上悪くならないのだから、あとは自然と爽快になってくるのを待つばかりである。
 この瞬間が私は好きだった。余計なことを考えることもなく、ストレスを自然に忘れられ、新たなる楽しいことを想像できる瞬間、普段であればなかなかそうも行かない瞬間である。
 目の前に一人の女が浮かぶ。
 どこかで見たことあるのだが、一体どこで見たのだろう?
 いかんいかん、余計なことを考えてはいけない。せっかく気持ちのよい時間なのだ。
 と、心の中で思いつつ、何とか思い出したいと思う自分がいるのも事実なのだ。
 この瞬間の「過去」は時系列を持った過去ではない。時間の繋がりを意識することもなく、記憶の中の「過去」が最近なのか、かなり昔なのか、自分でも分からない。たぶん、この瞬間から現実に戻ろうとする時、頭の中で再構築されるのだろう。それが記憶という機能ではないかと考える時がある。だが、それを意識する時というのも一瞬で、爽快な時間から現実に戻ろうとする漠然とした曖昧な瞬間だけのことである。きっと無意識に過ぎていく瞬間に違いない。
 しかし、顔はぼやけているが、その日に限って現実に引き戻された後も、女のイメージを忘れることはなかった。たぶん、目の前に現れれば分かるはずである。
 その日の計画は朝目が覚めた瞬間から決まっていた。
 もう一度、エレガンスホテルのビアガーデンに行く。それだけは決まっていた。その日もそれほど忙しくなく、昨日と同じように定時に退社することができた。
 会社の表に出ると昨日とほとんど時間が違わないにもかかわらず、感覚は一変していた。
アスファルトから照り返してくる熱気はもちろんのこと、風までムシムシ感がなく、爽快ささえ感じられた。
 西日はすでに山に隠れていて、真っ暗になるのは時間の問題だった。
 昨日まであれだけけたたましく耳に響いていた夏の代表とも言えるセミの声もなく、いつの間にか鈴虫のような秋の虫の声が心地よく鼓膜を揺さぶっている。
 セミの声がないだけでこれほど体感気温が違うものだとは思わなかった。
 確かに涼しくなっている。しかし実際の気温よりもはるかに涼しく感じていることを自覚できるのは、やはりセミの声がないからに他ならない。
――もう秋なんだなぁ――
 漠然と感じるが、本当にみんなおなじことを考えているのか、一瞬不思議に感じた。
 セミの声が聞こえず、鈴虫の声が聞こえるのは錯覚ではないだろうか?
 そう考えながらまわりの人を見ていると、真っ赤な顔に汗を滲ませながら歩いている中年サラリーマンの疲れた表情に、再度自分の感覚がおかしいのでは? と感じさせられてしまう。自分だけ季節を飛び越えたようなおかしな気分のまま、私の足はエレガンスホテルへと向かった。
 エレベーターが一階で待っている。
 扉が開いた瞬間、ムッと来るような熱気が中から漏れてきた。中はまるで蒸し風呂、一瞬たじろいだが、中に入った。
 扉が閉まり、いつものごとくゆっくりと屋上を目指し上がっていく。この時間帯がまもなくありつけるビールを一番欲する時間であり、少々長くても私にとってはそれほど苦になるものではなかった。
 しかしその日はいつもよりさらに長く感じられた。
 苦痛感などはない。逆に最初に入った時に感じた熱気が、エレベーターの中で次第に冷めてくるのだ。今までならカラカラに渇いた喉に、これでもかとなかり襲い掛かる暑さはビールを受け入れるに十分だったのだ。
 その日の私の目的はビールではない。昨日ここで出会った女性、もう一度会えることへの確信があった。おぼろげに覚えている顔を再確認したいという思いが強いのかも知れない。
 屋上に上がるまでにいつもであれば喉が鳴ったりして、欲しくてたまらないビールが頭に浮かんでこない。それと別に浮かんでくる思いは、いやな予感だった。
 果たして開いたエレベーターの扉、目の前に広がっているはずの提灯行列がないではないか。一瞬自分の目を疑い、目を閉じて、再度開けてみたが同じことだった。だが、二度目に開ける寸前に瞼に浮かんだ光景は、提灯行列ではなく真っ暗な光景だった。本来なら知らないはずの光景、それが違和感なく浮かんだのである。何となく不思議な気持ちだった。
 瞼の裏にビールの光景が浮かばない分、救われたような気がした。
 諦め? いや最初から期待していなかったような気もする。だが、泰子には会えそうな気がしてくるから不思議だった。
「晴彦さん?」
「?」
 後ろを振り向いた。暗闇の中でふいに後ろから声を掛けられたのである。本当ならびっくりして心臓が止まりそうなはずなのに、それほどびっくりしないのは予感があったからに他ならない。
 しかし身体はびっくりしたのか、その声に反応して、自分の意志にかかわらず、思わず後ろを振り向いた。
「あれ?」
 思わず叫んでしまった。
「泰子さん?」
 自分の記憶にある泰子と少しイメージが違っている気がした。漠然とした記憶であるが、考えてみれば本当に会ったのが昨日だったのかすら、おぼろげな気がしてきた。
 彼女は頷いている。
 しかし私の記憶の中の泰子とどこかが明らかに違う。
 どこが?
 と言われると、漠然としてしか浮かんでこないイメージを表現することは、とてもできそうにない。
 しかし少なくとも目の前にいる泰子と名乗るオンナは、今まで私が知る限りの女性の中で「オンナ」を感じる。妖艶なその雰囲気にすっかり魅了されてしまった。
「またお会いできてうれしいわ」
 泰子の言葉にただ頷いた私は、心底喜んでくれているであろう泰子が、とてもいとおしく思える。たぶん鏡があれば無意識に微笑んでいるであろう。それも今までにないような最高の笑顔を見せているに違いない。
 そう言いながら、そっと差し出す手を握った。
 何と暖かい手なんだろう。
 そう思ったのが見透かされたのか。泰子は満面の笑みを浮かべている。昨日会った時の雰囲気でいきなり手を差し出してくるような女性に見えなかった泰子だったが、今日はまったく違和感がない。
作品名:短編集5 作家名:森本晃次