魂の記憶
悲しいかな、娘であるがゆえに、子供であっても、何となく親が考えていることが分かってくる。それが情けなくて屈辱で、学校に取りに行かされる時に流した涙の理由はそこにあるのだった。
その頃から、親に対する反動の気持ちが激しくなったと同時に、モノに対しての気持ちも捻くれてくるようになった。
「何よ。たかがシャーペン一本じゃないの」
と、たったそれだけのことで、どうして親子で憎しみ合わなければならないのかと思うと、親がいうようなモノに対する執着をしないようにしようと心に誓った。
一時期、いろいろなモノを片っ端から捨てるようになったのはそのせいだ。小学生の低学年の頃に感じた親への反動が、なぜ中学になってから現れたのか、それは由紀子の中で意識していることを整理するまでに時間がかかったからというよりも、いろいろなことを考えていると、時系列がバラバラになってしまうという性格があるからだ。
そんな由紀子だったが、まわりはそのことにあまり意識しなかった。なぜなら、由紀子の思いはちょうど成長期の中の反抗期に当たるもので、まわりからは、
「仕方がないわね。時間が経てば落ち着いてくるわよ」
と思われていた。
本人としてはそんなつもりはないのに、どうして今頃なのかと疑問に思った。そして行き着いたのが、
――反抗期という時期には逆らえないんだわ――
という思いだった。
それまでにいつ反抗期に考えることが培われたとしても、結局は表に出るのは反抗期と呼ばれる時期しかない。
――成長というのは、因果なものだわ――
と思うことで、ちょうど成長期に当たるこの時期を、由紀子は自分の中での、
――暗黒の時代――
と思うことで、因果な時期を納得させようとしていた。
確かに中学時代には、モノをたくさん捨てることに終始した時期があった。
――モノを捨てるって、結構気持ちのいいものだわ――
使えるものであっても、どんどん捨てていった。中には、思い出のものも含まれていたことだろう。どんどん捨てている時は快感に身も震えるほどになっていたが、本来であれば、それは子供の頃の反動でしかなく、本当の自分の気持ちではないことを、理解していたはずである。
そのことに気づいたからなのか、急に半年経って、ハッとした。
――今まで捨てたものの中に、本当に取っておきたかったものもたくさんあったかも知れない――
と感じたからだ。
思い込みの激しさが半端ではない由紀子には、一瞬でもそう感じてしまうと、その思いから逃れられなくなった。
――捨ててしまったものはもう戻ってこない――
この、どうすることもできない思いは、由紀子の中でトラウマにまでなっていた。後悔してもどうにもならないという思いを生まれて初めて感じたのだ。
それからの由紀子は本当に何も捨てられなくなった。捨てる時にでも、何度もゴミ箱の中身を確認してごみ袋に捨てる徹底さだった。
ひどい時には、生ごみまで確認したほどだ。今から思えば、精神に異常をきたしていたとみてもいいかも知れないくらいだった。
さすがにそこまでのひどさは一時期のものだったが、それも、
――最初が肝心だ――
という考えのもとで、最初から楽をしてしまうと、ロクなことがないという思いがあったのも事実だった。一つ一つ考えながら自分を納得させること、それが由紀子には必要だったのだ。
それはなぜかというと、問題といえるのは、子供の頃からあった、
――忘れっぽい性格――
が原点となっているからだ。
由紀子がなぜそんなに忘れっぽい性格なのかということを、考えたことがないわけではなかった。本人はあまり考えていないように思っているが、自分が一人で何かを考えている時、
――私は忘れっぽい性格なんだ――
という意識が、考えの底辺で蠢いていることをウスウスながらに感じていた。その思いがなければ、いつどんな時も考え事を続けられるわけはないと思っていたからだ。しかも、根本にある性格が、ある意味致命的だということを意識していることが、親に対して反発できるだけの自信を自分が持っているということになるのかも知れない。
モノをどんどん捨ててしまった時期がどんなに短くても、少しでもそんな時期を経験したことが由紀子の中で、
――モノを捨てられない性格――
と強固なものにしたのだ。
もし、その時期がなければ、まわりにもモノをなかなか捨てられないという人がいたとしても、その人たちと変わらない自分しかいないだろう。しかし、自分はそんな人たちとは違い、徹底していると思っている。
そうやってまわりのモノを捨てられない人を見ると、
――なんて、中途半端な人たちなんだろう?
と思うようになっていた。
再度モノを捨てられなくなった時、以前と比べてさらに強い思いに変わっていったのにはさらに理由があった。
――自分のお金を出して買ったものは、格別の思いがある――
ということであった。
それが自分が稼いだものである必要はない。お小遣いとしてもらったお金を貯めておいて、そこから使ったものも、
――自分で稼いだお金――
と同じ感覚だったのだ。
実際に高校生になってアルバイトでお金を初めて稼いだ時に感じた思いは、その時の比ではないと思うことになるのだがが、その時に感じた「稼いだ」という思いは、実際にお金を手にした感動というよりも、新鮮な気持ちが強かったことで、格別の思いになったに違いなかった。
由紀子が時系列を意識しなかった時期があったとすれば、中学生の時が最初だったに違いない。
時系列についての意識は、普段から意識していないつもりでも、何かを考える時に底辺で、必ず意識しているのもだったと思っている。
中学時代には、その意識がなかった。それは、
――思春期だったからだ――
と思っていた。ただ、思春期だったからだという意識は厳密にいうと違っていた。
思春期というよりも成長期と言った方が正確であろう。
思春期と成長期というのは、厳密には違うものだ。似たような時期にあることなので、混同してしまうのだろう。由紀子の中では、
――思春期の中に、成長期が存在している――
と思っている。
成長期の中に、思春期が存在していると思っている人もいるだろう。どちらが本当なのか、由紀子は調べたことはなかった。
――調べてみよう――
と思った時期もあったが、忘れっぽい性格が災いしてなのか、思ってから実行するまでに忘れてしまっていることがほとんどだった。
――別に急いで調べる必要もない――
と思っていたが、それも何度も同じことを思い立つことで、
――そのうちに、また思い出すわ――
と考えるようになり、そのうちに調べてみようという思いすら、感覚的にマヒしてしまっていくようだった。
由紀子は、
――私と同じように、時系列に対して不思議な感覚を抱いている人もいるんだろうな――
と思うようになっていた。
ただ、そのことを本人が意識している人と意識しない人とでは、意識していない人の方が圧倒的に多い気がした。
――意識している人と出会ってみたい――
と思うようになったのも、意識している人が少ないという思いに駆られてのことだった。