小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

魂の記憶

INDEX|7ページ/34ページ|

次のページ前のページ
 

 由紀子は時々、自分が陥ってしまう躁鬱症のことを気に病んでいた。普段から必ず、鬱状態なのか、躁状態のどちらなのかというわけではなく、躁鬱を繰り返す周期に入るタイミングがあり、抜けるまでの間、躁状態と鬱状態を繰り返していた。その期間がどれくらいなのか、高校を卒業するくらいまでは漠然としてしか分からなかったが、卒業してしまうと、
――ちょうど、半年周期なのかしら?
 と思うようになった。
 一年を半分に割ると、半年間は躁鬱状態が自分の中にあることなど信じられないと思うほど平常心でいられる。しかし、躁鬱状態の波が襲ってくると、半年の間に躁鬱の状態を繰り返す。その間には平常心はなく、この間には、
――私は本当に平常心の状態に戻ることができるのかしら?
 と思うようになっていた。
 由紀子が躁鬱状態に陥る時、必ず最初は鬱状態から入り込む。黄色いライトがついたトンネルのイメージが頭に浮かんできて、気が付けばトンネルから抜けられない。しかし、頭の中では、
――二週間ほどで、鬱状態を抜けることができる――
 という確信めいたものがあった。
 なぜ、確信めいたものを抱くことができるのかというと、由紀子の持病に原因があった。持病といっても、病院に通院するものではなく、大したことはないのだが、その二週間いうのは、口内炎に見舞われるのだった。
――何を食べてもおいしくない――
 口の中にできてしまった口内炎は、子供の頃からの持病だと自分で思っていた。一度できてしまうと、さらにまわりに転移することもあり、場合によっては、一か月近く口内炎に悩まされることも少なくなかった。
 由紀子が感じるようになった鬱状態の時、必ず口内炎ができる。
――口内炎ができるから、鬱状態に陥るんじゃないかしら?
 と感じていたが、それもある意味、当たらずも遠からじであった。
 口内炎というのは、口の中で次第に育っていく。数日の間に育って、痛くて痛くてたまらない時期がまた数日続く。そして、痛みに慣れてきた頃に、少しずつ痛みが引いてくるのを感じると、本当に治ってくるのを自覚できるのだ。
 鬱状態も同じだった。
 最初に鬱状態のピークが来るまで数日かかり、ピークの間が数日ある。そして、トンネルの出口が見えかかる時を自覚することができた。黄色いだけの色に、他の色がまじりあってくるのを感じるからだ。
 その時、ちょうど口内炎も治りかかっている時だ。口内炎の場合は、本当に痛みと、傷口という比較対象があるのだから、治ってくるのが分かっても当然だが、精神的な病いである鬱病は、あくまでも漠然としたものでしかない。それでも、黄色い色のライトがついたトンネルとイメージすることで、鬱状態を抜ける予感を感じることができる。それが由紀子の鬱状態の特徴だった。
 鬱状態から抜けると、今度は何をやっていても楽しい時期が訪れる。この世に蔓延る不安や恐怖などまったく感じられない時期、それは感覚がマヒしてしまっていて、恐怖や不安から、
――逃げている――
 と言われても仕方のないことだ。
 由紀子は、逃げているつもりなど毛頭ない。どちらかというと、
――今まで鬱状態を苦しんできたんだから、躁状態を楽しむ権利くらいあるんだ――
 と感じていた。
 そういう意味で、躁鬱状態の入り口が必ず鬱状態だというのも分かる気がする。最初に躁状態から入ってしまうと、
――逃げている――
 という感覚が頭の中に充満し、せっかくの躁状態の中で、自己嫌悪が生まれるという矛盾した精神状態に陥ってしまう。
 もし、そんな精神状態になったらどうなるというのだろう?
 自分で分からないことであっても、心のどこかでは理解できているはずの自分の精神状態。さすがに躁状態と自己嫌悪の共存はありえないとしか思えない。それなら精神状態の移り変わりを科学的に解明し、それが納得できることであれば、そこにあるのは、「真実」でしかないのだろう。
 由紀子は口内炎を患うのは、子供の頃からだった。しかし、鬱状態に気づき始めたのは、中学生くらいになってからだったのを思うと、口内炎で苦しんでいる時の方が長かったのだ。
 しかし、口内炎で苦しんでいる間が、鬱状態の準備段階だったと言えないだろうか? もしそうだとすれば、鬱状態には潜伏期間があったといえる。
――鬱状態は、躁状態があってこその鬱状態で、躁状態も鬱状態があってこその躁状態――
 なのだとすれば、鬱状態の準備段階があったのであれば、躁状態の準備段階もあったのかも知れない。まったく意識していなかった中で鬱状態と躁状態が無意識に繰り返されていたのだとすれば、
――この二つは、潜在意識の中で蠢いていたのではないだろうか?
 と思えた。
 さらに、潜在意識というのは、夢を彷彿させるものであり、無意識というのは、本能を彷彿させるものだ。そう考えていくと、夢と本能は相関関係にあり、切っても切り離せないものではないかと思えてきた。
 子供の頃から口内炎を患っている時、確かに怖い夢を見ることが多かった。痛くてなかなか寝付かれない状態で、何とか寝付いた時は、本当に眠たい時だったに違いない。そんな時に見た怖い夢は、ある意味、自分の中の潜在意識というよりも、本能が見せたものだとも言えるのではないかと思うと、子供の頃に感じた口内炎と、大人になってから、躁鬱に関係があると思えている口内炎とでは、自分に与える意識という意味で、かなり違った意味を持ったものであることには違いないだろう。
 由紀子は、躁鬱症になるというのは、自分だけではないと思っていた。
――人と同じでは嫌だ――
 といつも思っているが、それは精神的なものだけであって、他のことは、自分は標準だと思っていた。
 同じように、躁鬱症にかかると、一年の間に、躁鬱症と躁鬱でない時が繰り返され、二週間サイクルで、躁鬱が入れ替わる。それも個人差はあるだろうが、あくまでも誤差の範囲で誰もが同じだと思っている。
 しかも、最初に訪れるのは鬱病であって、そのことが躁状態と自己嫌悪の共存がありえないということで自分を納得させることができ、何かの持病が影響しているところまで同じではないかと思っていた。
 しかし、冷静に考えると、そんな考えがまかり通るほど、人間の精神状態は単純ではない。
 一人一人の考えには様々なものがあり、
――人の数だけ、性格の数もある――
 と言えるのではないだろうか。
 それが個性というものであり、個性がなければ、この世の中の何が面白いというのだろうか?
 ただ、人の性格が人の数だけあるというのは、さすがに大げさな気がしていた。性格にはいくつかのパターンがあり、どんな人であっても、その中のパターンに属しているということになる。
 それらすべてのパターンを総合して、全体を埋め尽くすことができるかというとそうでもない。パターンの中には例外もあり、例外が一人一人違っているかのようで、まるで統計の少数派のようなものだ。標準とも言えるいくつかのパターンのどこにも属さない性格は、単純に個性として片づけていいものなのか疑問であった。
 由紀子も頼子も、二人ともどちらかのパターンに属する性格をしていた。普段から、
「私たちって、変わり者よね」
作品名:魂の記憶 作家名:森本晃次