魂の記憶
なぜなら、その世界ではまったく何も聞こえなかった。相手の息遣い、自分の悲鳴、さらには風の音すら感じられない。顔には風が当たっているにも関わらず、すべての音はどこかに吸収されているかのようだった。
――夢なら早く覚めてほしい――
という思いを、ここまで強く感じたのは初めてだった。最初から夢だと分かっているのだから当たり前のことなのだろうが、逆に音すべてが吸収されているのを感じると、
――この夢、本当に覚めるのかしら?
という最悪の思いも頭をよぎった。
――今まで感じた夢とはまったく違っている――
最初から夢だと感じたことから、普段とはまったく違う。普段は、夢だと感じた瞬間に目が覚めるか、あるいは、夢だとは思わないまま目を覚ますかのどちらかである。普通なら夢だと思わないまま目を覚ますことがほとんどで、夢だと感じた瞬間に目を覚ます時というのは、覚めてほしくない夢を見ている時しかないのだ。
覚めてほしくない夢というのは、楽しい夢に限られる。それ以外は、夢だと思わないまま目を覚ます時だった。しかし、今度のように極端に怖い夢を見ているからだろうか、最初から夢だと分かっている。夢を感じているともう一つの思いが浮かんできた。
――この夢、本当に夢なのかしら?
と思うほど、リアルに感じられたのだ。
そのリアルさを感じることを自分から拒否したいがために、最初から夢だということを感じさせたのではないだろうか? そう思うと、何となくではあるが、辻褄は合っているような気がしてきた。
夢の世界では声はおろか、音もまったくなかった。それなのに、湿気だけは不思議と感じられ、風が通っているのも、肌で感じられるかのようだった。
――襲われていて、恐怖で声も出ないくせに、湿気や風が吹いていることを感じるというのはどういう感覚なんだろう?
由紀子は夢の中で、冷静な分析をしていた。最初は自分が襲われていたはずなのに、いつの間にか自分は表に出ていて、誰かが襲われているのを、表から冷静に見ていたのだ。
そんな自分を由紀子は恐ろしく感じていた。目の前で襲われているのを見るというのも、本当はこれ以上恐ろしいことはないと思っていた。それなのに、冷静に見つめているのは、やはり最初から夢だと思っているからであろうか。
――いや、そうではない――
夢だと最初から感じていたのであれば、早く目を覚ましたいと思うはずなのに、目の前で繰り広げられている悪夢を、自分なりに理解しようと一生懸命になっていた。いくら客観的に見ているとはいえ、ここまでショッキングなことであれば、目を覆いたくなる状況のはずなのに、冷静になれる自分は、すでに感覚がマヒしていたに違いない。
感覚がマヒしていた理由を、夢だとして片づけるわけにはいかなかった。
――夢というのは、潜在意識のなせる業――
と思っていた由紀子にとって、夢だと分かった瞬間、そこから逃れることはできないのだと自覚したも同然だった。
由紀子は自分が見ている夢が怖い夢であり、覚めても忘れないことを自覚していた。怖い夢ほど忘れないという皮肉は、
――夢ならではのことだ――
と思っていたのだ。
しかし、同じ夢を他の人が見ているとは思ってもみなかった。しかも同じ日にである。それは言わずと知れた頼子のことであり、リアルさは頼子の方が激しかった。頼子の場合は、冷静になって自分を見るという夢独特の世界に入ることができず、夢の中で余裕もなかった。それだけに、目が覚めてからは、
――夢でよかった――
と思った。目が覚めてから思い出すのは、そこまでリアルな夢を見たわけではないと自分の中で感じたかったためだったのかも知れない。それだけ夢を見ている時に自分に余裕はなかった。そのことは夢の中での自分が一番よく分かっていたはずだ。そこが同じ夢を見たのだとしても、由紀子とは違うところだった。
頼子の夢は、本当に危なくなる寸前で目が覚めた。それは怖い夢を見た時の常套であった。楽しい夢であっても怖い夢であっても、目が覚める瞬間というのは、本当にちょうどいいタイミングなのだ。それを怖い夢の時は、夢でよかったと感じ、楽しい夢の時は、目が覚めてしまったことを悔やむという夢としてはノーマルな夢しか、頼子は見たことがなかった。
ノーマルな夢以外を見るという意味では、由紀子は今までに何度もあったような気がする。そのせいか、他の人と違う夢に対しての感覚を持っている。もっとも、夢について必要以上な会話をすることがなかっただけに、自分が考えていることがノーマルではないとは思ったことがなかったのだ。
頼子は、夢について他の人と話すことがなかったわけではない。ただ、それは怖い夢であったり、不思議な夢を見た時ではなかった。ふいに何か思いついたように話をするのだ。最初のきっかけは、頼子の方から話をするのだが、途中から相手に主導権が移っている。
最初乗り気だった相手が、主導権が自分に移った時点で、急に冷めてくると、主導権を握った方はどのように思うだろう?
――この人は人に話題を振っておいて、先に自分から冷めてしまうなんて、自分勝手な人なんだ――
と思われることだろう。
頼子は他のことに関しては、こんなことがないので、別に人から嫌われることはなかったが、夢のことになると、自分だけ最初に盛り上がって、後は相手を置き去りにしてしまう逃げの姿勢を取ってしまっていた。
しかも、頼子はそのことに悪びれる様子はなかった。
――仕方のないことだ――
とでも思っているのか、冷めてしまってからは、急に態度が横柄になってしまうことが多かった。
そんな時は、相手も、
――仕方ない――
と諦めがつくようだ。相手を必要以上に怒らせないところも、頼子の性格なのかも知れない。役得と言ってもいいだろう。
由紀子の場合は、逆だった。
自分から夢のことについて話し始めることはなく、最初は相手の話をただ冷静に見ているだけだったが、自分の意見と同じ話が出てくると、俄然饒舌になってくる。主導権は完全に由紀子に移り、今度はまわりが冷静に由紀子の話を聞いている。
由紀子は夢の話以外でも、ほとんど同じパターンだった。だから他の人も別に嫌な思いをすることはない。むしろ由紀子のパターンが普通の会話のパターンに当てはまる気がする。つまりは、由紀子だけではなく他の人も同じことである。
ただ、パターンが違うといっても、頼子も共通点はあった。
――他の人が話をしている時は、自分は静かにしている。そして、他の人が話をしていない時に、自分の意見をいう――
という意味であ、頼子も同じだった。お互いに、
――仕方がない――
と感じるのも、当然のことなのかも知れない。
由紀子と頼子の二人も同じだった。お互いを凸凹と考えるなら、二人の関係は、相手に足りないところを自分が補うという意味で、うまく行っているのだ。