魂の記憶
――このまま永遠に自己嫌悪から抜けられないかも知れない――
という不安が募っていたりするものだ。しかし、一度入り込んでしまうと、状況には慣れてくるもので、そのうちに、
――抜けられないトンネルなどありえない――
と思うようになった。
トンネルの中は黄色くて、色はすべてが黄色かかっているために、同じ黄色でも濃い部分と薄い部分が存在しているだけの、モノクロでしかなかった。
そのために見えているのは、光と影しか感じられない。もしここで影の部分を意識することができなければ、それは平面の世界でしかないという発想だった。
由紀子は、時々異次元の世界を頭に抱く時がある。四次元がほとんどなのだが、たまに二次元という平面の世界を想像することがあったが、その時に感じるのが、
――影のない世界――
であった。
普通は考えられない世界であるが、厳密に言えば、
――影がないという発想ではなく、影が光によって打ち消されている――
というものだった。
そもそも光と影のコントラストは、色によって形づけられている。つまりカラーであれば大きさや奥行きを正確に感じることができるが、単色やモノクロであれば、大きさは想像できても、奥行きを想像することができない。
ということは、モノクロの世界では、立体というよりも平面を意味づけているということであり、平面を想像するということは、その前提には、モノクロという世界が広がっていなければいけないのだった。
異次元の世界の中で、四次元よりも二次元の方が想像しにくい。
――人間の想像の域を超えているのではないか?
とさえ思えてくる。
平面ということは、他のものとダブって存在することもあり得るということで、これほど息苦しいものはないと思われる。どんなに科学が進歩して、四次元の世界を覗くことができたとしても、二次元へ行くことは不可能に思えた。なぜならその理由に、
――二次元の世界こそ、人それぞれの感情の中に潜んでいるものなのかも知れない――
と思うようになったからだ。
その根拠が黄色いトンネルを想像した時であり、この世界への入り口が、人の精神状態の変化からしか入り込めない。
つまりは、科学によって二次元の世界が想像されるものではなく、人の精神状態としてしか想像できないのであれば、想像することは誰にでもできるが、そこに人の意志や目論見は存在していないということになるのだ。
――二次元の世界を構成しているのは、人間の感情の中にある「鬱状態」なのではないだろうか?
と考えるようになったのは、自分が、
――躁鬱症ではないんだろうか?
と思うようになった高校時代からであった。
それまで漠然としてしか考えたことのなかったことが、鬱状態になると、いろいろ分かってくる。まるで違う人間になったかのようであり、そのくせ自分で自分を操縦することが不可能な世界であったのだ。
自己嫌悪から鬱状態に陥るなどという発想は、普通であればすぐに思いつきそうな気がしていたが、なぜかその時の由紀子には気が付かなかった。黄色いトンネルを二次元の窮屈な世界として先に発想してしまったことで、この結びつきに気が付かなかったのではないかということが、後になってくると結論として受け止めていい発想に思えてきたのだ。
後になって鬱状態を頭の中で想像するなら、黄色いトンネルが一番妥当なのであったということに気が付いたのだが、その時は、黄色いトンネルだけを意識していると、鬱状態という発想に行きつかない何かがあったように思えた。それが異次元への発想だけではないと思えたのも、後になってからのことだった。
二次元の世界を最初に想像していたら、自分の身体もぺったんこになってしまい、絵の中に封じ込められていたことだろう。絵の中に対しての思いは、
――絶対に動くことができない――
という発想だった。
絵に描かれたものが動くなど、想像もつかないことだ。まず、
――絵に描いたものは動かない――
という大前提があって、すべての発想が生まれるのだ。
逆に絵に描いたものは動かすことができないのだから、何かを封じ込めたいことがあるのであれば、この世界へ封じ込めることができれば、これ以上の隠し場所はない。もし表から見えていたとしても、動かすことができないものだとして絵を見ていると、目の前にあっても、決して気づかないだろう。それはまるで道端に落ちている石のごとくである。
そんな思い出したくもないことが自分の身に起きた時、無意識に鬱状態に陥る。それは思い出したくない恐ろしいことから逃げたいという意味ではなく、目の前にあっても、誰にも気づかれないという鉄壁の隠し場所を求めることで、無意識にでも鬱状態に入り込王とするのかも知れない。まわりから見て鬱状態というのは悲惨なことがあった時のただの逃げ場所のように感じ入られるだろうが、本当は、自分の気持ちを人に知られたない時に入り込むことで、隠し通せることを確信しているからだった。
由紀子は妄想する時、自分の身に悪いことが起こるという妄想が多かった。誰かに襲われたり、幽霊を見たりなどの発想が多かった。たまにはロマンスだったり、恋愛だったりの妄想をすることもあったが、妄想してしまうことで恐怖が湧いてくるような気がして、楽しい妄想は、まるで逆夢を見てしまったように思えるのだった。
そのあたりが、自分のことを被害妄想だと感じる要素なのかも知れない。しかし、被害妄想というのは自分だけではなく誰もが持つものだ。そうでなければ、「被害妄想」などという正式な言葉が生まれるはずはない。そんな簡単なことが、妄想を繰り返している状態の時の由紀子に分かるはずもなかった。逆に妄想を繰り返している時でなければ、被害妄想などという発想も生まれてこない。実に皮肉なものだといってもいいだろう。
しかし、被害妄想を持つことは誰にでもあることだとしても、それが鬱状態に結びつくというのはどうであろうか? 被害妄想になる人のすべてが鬱状態に結びついているわけではないという発想は思い浮かぶとしても、逆に鬱状態の人すべてが被害妄想と結びついているという発想も危険な気がしていた。
由紀子が鬱状態に入り込んだ時に見た夢は、その日、珍しく人に気を遣ったと感じさせた時だった。それも相手が親だったことで、自分の中でどうしても許すことのできない思いの葛藤があったのだ。
その日に見た夢は、男性に襲われる夢だった。
数人の男性が自分に覆いかぶさってくる。顔を見ようにも逆光になっていて、真っ黒い影しか浮かんでこない。しかし、顔は浮かんでこなくても、真っ白い歯だけが見えていた。その表情には淫靡な笑みが浮かんでいて。ある意味、表情が分からないのは不幸中の幸いなのかも知れないが、表情が分からないにも関わらず笑みだけを感じてしまうというのは、相手が本当に人間なのかを疑いたくなる気持ちにさせられた。
――そんな思いも夢の中ならではのことに違いないわ――
と感じされられたが、夢の世界であるということは、最初から分かっていたような気がする。