魂の記憶
同じ特徴を持っているから、惹かれ合うように、自然に二人は知り合ったのかも知れない。しかし、同じ特徴を持っていても、片方は極端な思いが頭の中にあるため、どうしてもそれ以上近づくことはできない。しかも、特徴がもたらした相手への感情が、近づいていき、重なることになっても、そのまま交差して、すれ違ったまま、どんどん離れていくのは、引き合う力があっても、お互いに交わるという意識がないために、交差した時、唯一交わることができるタイミングを分からずに、好機を逸してしまったのだ。
由紀子は、頼子を気にしていないのに、頼子の方が自分に興味を持っていることを知って、不思議に感じていた。本当は自分の方から先に興味を持ったということを忘れているので、同じ興味を持たれるにしても、他の人とは違っていることが不思議だったのだ。
由紀子は今まで女性から気にされたなどという意識を持ったことはない。自分が気づかないだけであったのかも知れないが、今までは、なぜか男性から気にされていたことで、嫉妬に近い視線は感じたことがあるが、興味を持たれるというのは初めてだった。普段から男性の視線しか意識したことがないので、女性の視線にどのようにリアクションを起こしていいのか分からない。そんな由紀子はその時まで、自分がどうして男性の目を惹きつけるのか、考えたこともなかった。
下手に考えても、思いつくことは自分の都合のいいことばかりだ。異性の視線なのだから、自分に都合のいいことであっても、問題ないはずなのだが、それが思い上がりに変わってしまうことを、由紀子は懸念していた。由紀子には中途半端なところで、余計な気を遣うところがあったのだ。
由紀子はおだてに乗りやすい性格だと、まわりから思われているようだが、それは中途半端にまわりに気を遣っているからなのかも知れない。合コンの時など、ノリがいいと初めて会う男性陣にはそう思われているのだろうが、以前から由紀子を知っている人にとっては、おだてに乗りやすいわけではなく、中途半端に気を遣っているだけだということを分かっているので、少し冷めた目で見ていることだろう。
「由紀子はコウモリなのかも知れないね」
と言っている人もいるが、その人は一番由紀子のことを理解しているのかも知れない。
コウモリという動物は、ケモノと鳥が争う中で、そのどちらにもいい顔をするという話がある。由紀子にも同じようなところがあり、一種の、
――生きていく上での知恵――
のようなものだと思っていたが、その結果、どちらからも嫌われるというイソップの童話の話を知らないのだろうか。
どちらにもいい顔をするというのは、逃げ癖がついてしまうことでもあり、逃げ癖がついてしまうと、感覚がマヒしてしまう。うまく行っていると思ってみても、それは自分がそう感じているだけで、まわりが見えていない証拠でもある。
童話の世界でも、最後はどちらからも嫌われるものであり、最初から策があってこそ成り立つコウモリのような日和見的な行動は、えてして、自分を見誤らせることに繋がるのである。
由紀子のまわりとの付き合い方はまさしくその通りだった。まるでコウモリのようにまわりと接し、差し障りのない付き合いに終始する。
――人とさりげなく付き合っていく――
というための知恵のようなものだと自分では思っている。
最初、男性からモテるのは、そんな差し障りのない付き合いが、相手に余計な気を遣わせないことで、気楽さを相手に感じさせるのではないかと思っていた。
勘違いも甚だしいのであろうが、由紀子のように同性の友達が少ないと、異性に対してそんな目で見てしまうのも無理のないことなのかも知れない。
由紀子が同性で唯一友達だったといえるのではないかと思っているのが頼子だが、頼子との付き合いも、
――同じ女性だから――
という思いで接していると、すぐに亀裂が走ったかも知れない。しかし、由紀子だけではなく頼子の方でも、同性として見ているよりも、同じ人間としてという広い範囲から狭めて見ていくことで、由紀子を見ていこうとしていた。すれ違いもあるのだが、お互いに他に同性の友達がいるというわけではないので、気づかずに通り過ぎていたようだ。
頼子は、中学時代に自分のことを気にしてくれていたであろう女の子のことを、由紀子と知り合って思い出すようになったが、
――失っていた記憶を思い出した――
と、ハッキリ感じた最初のことだったのだ。
由紀子の方は、男性からモテてはいたが、特定の彼氏がいるわけではなかった。男性からモテているにも関わらず、正直由紀子は、男性が怖かった。それは、頼子が昔妄想してしまった男性から襲われるシーンと同じだったが、頼子も同じようなことを、しかも、思春期の入り口くらいで感じたなどと、想像もしていなかった。
由紀子は、以前から被害妄想なところがあった。自分ではいつからそんな被害妄想になった分からなかった。だから、まわりとは差し障りのない付き合い方をしようと思っているし、本人は気を遣いたくないと思っていた。
人に気を遣うというのは、相手にも同じように気を遣わせることである。こちらが意識して気を遣っているということは、言葉に出さないだけで、
「私がこれだけ気を遣っているんだから、あなたも私に気を遣いなさいよ」
と言わんばかりではないだろうか。
よく喫茶店などのレジで見かける光景として、おばさん連中が「午後のティタイム」として洒落込んでいる時のこと、誰がお金を払うかでもめていることがある。
「ここは私が出しますわ」
「いいえ、私にお任せください」
と、どうでもいいような会話を目にして、ウンザリすることもあった。
――「今日は私が払うから、次回はお願いね」などということが言えないのかしら?
という思いをいつも抱いている。
相手に精一杯気を遣っているのは分かるが、これでは完全に空気が読めていないと思われても仕方がない。自分たちだけのことしか見えていないので、もし、その後に会計を待っている人がいても、目に入っていないだろう。
実に情けない光景に見えてきる。自分たちだけの池の中で鳴いているだけのカエルは、絶対に大海など知るわけもないのだ。
時代の違いと言えばそれまでだが、いまだにそんなことで時間を費やしている人がいると思っただけで、ムカムカしてくるのは由紀子だけではないだろう。
そういう会話だけが人に気を遣っていることになると思っている人を見てしまうと、人に気を遣うということが、あまりいいことではないという印象を受けてしまう。
――そんなに輪の中で自分が中心にいたいと思っているのかしら?
と、考えると、人に気を遣っているように見えていることは、たたのポーズでしかないことの証明のようだった。
――人に気を遣うなど、自分にはありえない――
と、中学時代までは思っていたが、高校生になった頃から、自分が人に気を遣っているのを感じるようになると、次第に自己嫌悪に陥るようになっていた。しかも、気の使い方が中途半端なのだ。
自己嫌悪になる時というのは、周期的に訪れていた。一度自己嫌悪に入ってしまうと、しばらくは抜けない。入り込んでしまった時には、