魂の記憶
違っているところばかりを探していると、なかなか思いつかない。逆に思い出せる部分をしっかりと思い出していると、違和感を感じるところが出てくるはずだ。
――何か最近意識し始めたことに影響しているように思える――
と感じていたが、最近意識し始めたことと言っても、なかなか思いつくものではなかった。
特に最近は、
――毎日を無為に過ごしている――
という意識があったが、特に直近のことは思い出せなくなっていた。
――まるで恵さんのようだ――
恵を慕っていた頃、本人から聞いたことがあった。
「どうしてなのか、昔のことは思い出せるのに、直近のことって思い出せないのよ」
その時は、
――恵さんでもそんなことがあるんだ――
と、慕っている恵さんのことなので、自分のような者には感じることのできないものだという意識しかなかった。
今から思えば、あの時の恵さんも、今の自分のように、無為に過ごしているという意識があったのかも知れないと感じていた。
確かに無為に過ごしていると、毎日が早く感じられ、駆け抜けてしまった毎日をいちいち気にすることもなくなった。
また恵さんのことを思い出した。恵さんと頼子を交互に思い出していると、頼子が男性っぽかったのを思い出した。恵が男性っぽいというわけではない。むしろ、明朗快活なところがあったくらいだ。頼子に男性っぽさを感じたのは、今に始まったことではないような気がした。一緒にいる時も感じていたはずだった。
自分と似たところの多い頼子だと思っていたが、似たところを掘り下げて考えてみると、残ったところが、頼子の男性っぽさというところだったのだ。
ただ、それも今だから感じることだった。
一緒にいる時に少しでも感じていたのなら、もっと早くに思い出せたはずだ。まるで撮って付けたように頼子に男性っぽさを感じたというのは、今思えば、男性なのに女性っぽさを感じた啓介を知ったからではないかと感じる。
――逆も真なり――
という言葉を思えば、
――頼子という存在を忘れていなかったから、啓介に対してすぐに、女性っぽさを感じなかったことだろう。感じたとしても、ここまで確信めいた思いに至らなかったに違いない――
と、頼子と啓介の間に何か運命のようなものを感じた。
少し考えが飛躍し、横道に逸れてしまったような気がしたが、由紀子は絵画について何を忘れているのか、また考えるようになった。
絵を描き始めた時のことを思い出していた。
別に誰かから習ったわけでもなければ、本を読んだわけでもない。ただ、スケッチブックと鉛筆を用意して、
――まずはデッサンから――
と思って、軽い気持ちで始めたのだった。
「油絵のような高度な技術が必要なものは、私にはできない」
と、まずはデッサンを「入門編」として位置づけ、しかも、仰々しい道具も必要ないことが、
「まずは、デッサンから」
と思って始めたのだった。
その考えが甘かったことを、すぐに思い知らされた。それでも、すぐ諦めたとしてもまた始めたのは、デッサンに魅了されていたからだった。
――あと少しで思い出せるのに――
と感じたのは、やはり、ベッドの上でスケッチブックと、鉛筆を手にしている姿を思い浮かべていたからだ。
――それにしても、どうして、顔がシルエットになって見えないのかしら?
どうしても、自分が絵画を描いている姿を想像させたくない何かがあるに違いないのだろう。
ベッドの上にいる人の顔を思い出せないと思い。一度目を瞑って、すぐに目を覚ましてみた。すると、今度は見えてきたものがまったく違っていた。
目の前にベッドはあったが、見えているものは違っている。部屋を見渡すと、どこかで見た光景だということはピンときたのだが、いつ見たものか、すぐには思い出せなかった。
――つい最近のことだったように思うわ――
気が付いたら天井を見つめていた。明らかに自分が目を開けた時にいたのは、ベッドの中である。
由紀子は自分には入院したことはないと思っていたので、
――病院のベッドから見渡した姿はどんな感じなんだろう?
と思っていた。
もちろん、それは子供の頃のことで、大人になってから、入院してみたいなどと感じるわけもなかった。子供の頃は入院すると、
――学校も休めるし、皆心配してお見舞いにも来てくれるわ――
という、甘い考えを持っていたのだ。
家族も少しは心配してくれるという思いもあり、その時は精神的に本当に入院した時のように気弱になった自分を思い出すに違いない。
さっき、最初に入院ベッドに横になっている人の顔のシルエットを感じたのは、そこに自分の顔を想像してしまったからなのかも知れない。子供の頃はよく自分の顔を鏡で確認することもあったが、大人になってからは、朝化粧を施す時くらいだった。もちろん、他の時も自分の顔を見ることはあったが、表情をいちいち確認することはなかった。
――自分がどんな表情なのか、忘れてしまっているのかも知れないわ――
と思うようになっていたのだ。
――自分がどんな表情をするかなんて、あまり考えたことはなかったわ――
と、今さらながらに感じていた。
子供の頃には確かにあった。
それは誰かに気を遣っている気持ちがあったからではなかったか。だが、本当に誰かに気を遣っていたと思っていたのは大学時代のことだった。就職してからも気は遣っているが、それはあくまでも仕事上でのこと、
――上司や同僚に気を遣っている――
などと感じてしまうと、余計な神経をすり減らすことになるのが分かっているので、必要以上に感じないようになっていた。
由紀子はベッドの上でスケッチブックを持っていた。
部屋を見渡すとそこには誰もいなかった。表は明るいので、昼間であることは分かっている。部屋の外からは喧騒とした雰囲気が感じられるので、
――やっぱり病院なんだわ――
と、今さらながらに感じていた。
病院であることを再認識していると、さっきまで感じなかった匂いを感じるようになった。薬品の匂いで、いかにも病院にいるのが分かってくる。目が覚めてくるにしたがって、そこが病院であるということを再認識させられるような事実が、次第に自分に襲い掛かってくるのを感じていた。
「病院というところは、ただいるだけで、病気でもないのに、病気になったような気がしている」
という話を聞いて、
「それはもっともなことだわ。私も同意見ね」
と、言い返したことがあったのを覚えている。
あれは、高校の頃だっただろうか? 誰かが入院していたのをお見舞いに行った時のことだった。
――お見舞いに行くような親密な友達が高校時代にいたかしら?
と思い、その時のことを思い出そうとしたが、考えれば考えるほど、記憶が薄れていった。
――これって、本当に自分の記憶なんだろうか?
確かに、いるだけで病気になったような気がするという意識を持ったことがあったのは間違いのないことだったのだが、それ以外の記憶は本当に自分が意識してのことだったのかどうかの自信がなくなっていた。
――病院というところ、しかも病室というところは、自分の中にある意識をおかしくさせる効果があるんじゃないかしら?