魂の記憶
相手の返答を予測することは今までにも何度もあった。いや、無意識に返答を予測するようになっていたと言っても過言ではない。
由紀子は啓介の回答を待っているつもりはなかった。もし回答がなくても、自分の考えの行き着くところに間違いはないと思うようになっていたからだ。
――加算法と消去法で考えると、私の考えは消去法なのかも知れないわ――
と、最近考えるようになっていた。
ただ、どちらが好きかと聞かれると、加算法だと答えるだろう。自分の好きだと思っていることが、自分の考えと一致するというわけではないことを、自覚している由紀子だった。
しばしの沈黙を破って、啓介が口を開いた。
「姉は、ずっと臥せっているわけではないですよ。最近では、絵を描くことが好きなようで、いつも表を見ながら、スケッチブックに鉛筆でデッサンしている姿をよく見かけます」
沈黙の時間がしばしあったような気がしたが、啓介の言葉が終わるか終わらない瞬間に、自分が訊ねたセリフはたった今だったように思えていた。
「まあ、絵を描くんですね。素敵ですわ」
由紀子も今までに何度か自分でも絵を描いてみようと思い立ったことがあった。そのたびに挫折してしまったかのように、すぐに諦めていた。
「あんたも、飽きっぽいわね」
と、人から言われたことがあったが、何度も挑戦してすぐに諦めてしまうというのは、飽きっぽいのとは違う。だが、捨てゼリフのような相手の言葉にいちいち反応する気はなかった。下手に反応して熱くなることほど、自分にとって無駄なことはないと思ったからだ。
由紀子は何度も諦めては、また描いてみたいと思うようになるのだが、その諦める理由というのは毎回違っている。これでも、一度何かの理由で諦めたとすれば、その部分を少しでも克服することができる自信を持って、再度挑戦していた。そうでなければ、同じことの繰り返しである。そういう意味では、
――何度も挑戦して、何度も諦めての繰り返し――
というのは、決して同じことの繰り返しではないのだった。
いくら表面上同じことを繰り返しているようでも、その内容が違わない限り、何度も繰り返してみようとは、さすがに思わない。そこまで由紀子は自分が執念深いとは思っていなかった。
ここでいう、
――執念深さ――
というのは、悪い意味での執念深さである。
一口に執念深さと言っても、いい意味と悪い意味があると思っている。どちらかというと悪い意味で使われることの多い言葉だが、それは、いい意味で使う時というのは、もう少し違った言葉があるのではないかと思うからである。
――もっと気の利いた言葉――
というのが存在していると思うのだった。
由紀子は、諦めもせずに続けている恵のことを、
――羨ましい――
と思っている。
しかし、もし彼女にも自分と同じように挫折を味わうようなものが訪れていたとしても、それを払いのけることができるのは、精神に異常をきたしているからだとすると、複雑な気持ちになっていた。
それは、恵が病院のベッドの上から窓の外の風景をデッサンしている姿を想像することができるからであった。その表情にはあどけなさとも言えるような、まるで幼女のような表情が浮かんでいるのが見えていたからだ。
――自分にあんな表情、できるわけはない――
疑問符どころか、最初から否定していた。
それは、精神に異常をきたしている人間と自分のような人間との違いである。
――精神に異常をきたしているというのは、誰が決めたことなんだ?
もちろん、その様子が常軌を逸しているから誰かが病院に連れていき、医者の見立てから、
――精神に異常をきたしている――
という診断が下されたのだろう。
しかし、
――例外というのが本当に存在しないのか?
あるいは、
――医者の誤診ということはないのか?
ということが頭の中を巡っていく。
その思いは由紀子だけではないだろう。特に家族や肉親にとっては大切なこと、疑問が本当であってほしいと思っているが、口に出せないだけなのかも知れない。
人には、大なり小なり、人には言えない何かを持っているものだ。それがトラウマだったり、表に出せないこととして、内に籠めていたりする。それを由紀子はいつも考えていた。
――人それぞれに個性があるように、十羽一絡げなどというわけにはいかないんだ――
という考えである。
由紀子は、自分が絵を描けない理由が一つではないとずっと思っていた。毎回途中であきらめる時の理由が違うからだ。だが、最近は違う考えを持っている。
――一度諦めてもう一度始める時には、前に挫折したことを、少なくとも自分で克服できると思っていた――
と感じていた。
自信があったというわけではない。
――本当は最初から克服できていたことでもなければ、再度始めようとは思えないからだ――
とも思う。
今まではぶつかる壁がたくさんあって、それを一つ一つ潰しているしかないと思っていたのだが、その壁が一つではなかったのかと思うようになっていた。
壁が一つだと考えると、自分が再度挑戦してみようと思ったところは、最初とは違った切り口から攻めているはずである。一方向からの突進では猪突猛進でしかなく、打ち破られるのがオチだ。その理由を、
――全体が見えてこないからだ――
と感じるようになると、そのうちに攻略できるのではないかと思うようになっていた。
それでも、なかなか攻略することができない。全方向から当たっても砕けない時は、それこそ自分には絵の才能がないと思う時であり、完全に諦めがつく時だった。しかし、今の由紀子には、
――何か一番大切なことを忘れているだけだ――
という思いがあり、それを思い出すことで解決することがたくさんあるのだと思っている。しかも、それは忘れていることであり、自分で本当は分かっていることだということへの思いに揺るぎはなかった。
恵が絵を描いていると聞いて、由紀子は、ベッドの上で絵を描いる姿を思い浮かべてみたのだが、その顔を確認することができなかった。まるでシルエットに浮かび上がるその顔は、光と影に包まれて凸凹を確認することができるが、その顔や表情を確認することができない。
その人が一体誰なのか? 男なのか女なのかすらも自信がない。そこにいるのが啓介だと言われても、違和感はないだろう。
もちろんその表情は分からない。笑っているのか泣いているのか、怒っているのか、それとも、無表情なのかもである。
だが、次第に由紀子は相手が無表情ではないかと思うようになっていた。しばしの間目を逸らすことができずに見つめていて、相手の顔を確認することができないからだ。今度は相手の顔を見続けている時間に錯覚がないという自信があった。あっという間だったということはありえなかった。
痺れを切らしたのは、由紀子の方だった。
今までなら、妄想や錯覚の類は、自分が見切る前に、向こうから姿を消していた。それだけ長い時間だと思っていたことでも、あっという間だったということなのかも知れないが、妄想や錯覚を見た時、金縛りに遭ってしまっていたのではないだろうか。