魂の記憶
それだけ自分が浅いところでしか、男性と引き合うことができないということであろうか?
「実は僕の姉は、僕が死んだと思い込んでいるんですよ。そのせいもあってか、一時期の記憶が欠落しているようなんです」
「自分から、生きていることをお姉さんに話すわけにはいかないの?」
「それができるくらいなら苦労はしない。もし、そのことを話して、姉の欠落している記憶が永遠に思い出すことができなくなって、姉の精神状態に狂いが生じれば、僕は一生悔やんでも悔やみきれないことになる」
啓介は声を荒げるかのように由紀子に訴えた。口調は突き放しているような感じだが、実際には由紀子に自分の苦しい胸の内を聞いてもらいたいという心境なのではないだろうか。
「お姉さんとはお話をされているんですか?」
「姉は記憶が欠落してから、病院に入院しています。僕のことも今は半分分かっていないような感じなんですよ。というよりも、姉は僕の死んだ弟と、僕に対しての記憶が交錯しているようで、そのあたりに姉の欠落した記憶の正体があるようなんですよ」
「お姉さんは、あなたと弟さんの区別がつかない?」
「それはまだしっかりしている時からのくせのようなものなんですよ」
「お医者さんは何とおっしゃってるんですか?」
「先生は、じっくり時間を掛けて治していくしかないと言っています。記憶の欠落は自分に原因があることが多く、忘れてしまいたい記憶の存在が、自分を苦しめていると話していました。つまりは、姉自身が自分を取り戻すか、トラウマを解消させなければ、先には進まないと言っているんです。一時期姉の状態がかなりひどくなって、僕も面会謝絶になったことがあったんですけど、その頃から僕も病院から遠ざかってしまって、話をする機会もなくなってしまいました」
「そうだったんですね。人には誰にも言えないような過去が一つや二つはあるってよく聞きますが、本当なんですね」
「あなたもそうですか?」
「え、ええ、私にもあります」
「僕にもあるんですよ。姉にも当然あって、それを自分の内に籠めているために、今のような状態になったのかも知れません」
「ところで、お姉さんはずっと悪いままなんですか?」
「いえ、いい時もあるんですよ。入退院を繰り返しているような感じですね」
由紀子はお姉さんが自分の知っている恵だと確信している。恵は弟の復讐をしたいと言っていたという。それは自分に対しての復讐の思いだったはずだ。
――私が復讐したい相手だと分かっていて、私に近づいたのかしら?
彼女の雰囲気からはそんなことは感じられなかった。それよりも、彼女が入退院を繰り返しているような精神が病んでいるような雰囲気も感じられなかった。
確かに恵の目力の強さは病的なほどに感じられた。恵の中に、誰にも言えない何かが感じられたのも事実で、躁鬱の気があることも分かっていた。
――そういえば、私がモノを捨てられない性格だって話をした時、恵さんは間髪入れずに頷いていたのを感じたわ――
その時それまで感じていた彼女の目力の強さに、ヘビに睨まれたカエルを想像していたが、それ以外の感情を感じたような気がした。その時の思いを今すぐには思い出せなかったが、その思いがあったことで、恵を慕いたいという気持ちになったのだと、由紀子は気が付いていた。
「お姉さんは、人から慕われるようなタイプだと思うんだけど」
と由紀子がいうと、
「確かにそうかも知れない。でも、普段の姉はいつも明るく、知っている人がいたら、声を掛けないと気が済まない性格なんですよ。しかも、声を掛けた時というのは、実にタイミングのいい時で、相手も姉と話をしてみたいと思った時期だったりするらしいんです。医者はそれを姉の特異な性格の一つで、悪いことではないと言っていましたね」
恵が今回の入院前に声を掛けた男性、真田正則とはそれからしばらく付き合っているような感じだった。本人たちは自然な付き合いだったようだが、まわりから見れば、
「これほどお似合いのカップルはいない」
と思われていたようだ。
しかし、恵の発作は突然だった。
急にひきつけを起こしたかのような痙攣がいきなり恵を襲ってきた。連絡はすぐに弟である啓介のところに入った。携帯電話がけたたましく鳴り響き、すぐに病院からだと分かった。
病院に駆け付けた時には、恵は意識を失っていて、
「いつもの発作のようですが、今回は少しいつもと違っているようです」
「というと?」
「定期的なものというよりも、何かショックなことがあって、発作を起こしたようです。ひょっとすると欠落した記憶を思い起こすような何かがあったのかも知れませんね」
医者としては、プライバシーの問題もあるので、下手に掘り起こすことはできない。本人にはあらかじめ、発作を起こした時、記憶が取り戻せそうな時にはどうするかということを打診していたが、本人も悩んでいたようで、ハッキリとしたことは名言していなかった。そのため、医者もそれ以上、応急手当以外のことをするわけにもいかず、とりあえず、啓介に相談してみたという次第だった。啓介本人も、姉のことを思ってか、
「姉が困って迷っていることを、僕が勝手に判断できません」
としか言えなかった。
医者も、
「それはそうでしょうね」
としか、言いようがなかった。
発作が一段落して、姉の意識が戻った時、どんな状況になっているのかを黙って見守るしかない啓介だった。
啓介はその時初めて正則と会った。
啓介は正則を見て驚いた。だが、その表情を表に出さないようにしていたが、それは、正則の方が啓介を見て、別に何も感じなかったからだ。
――気のせいか?
と、啓介は感じたが、その思いはなかなか消えるものではなかった。その思いを感じた時に啓介は、
――由紀子さんと会わなければいけない――
と感じていた。
正則の方に啓介の意識がないのか、それとも、本当に忘れてしまったのか。どちらにしても、もし正則が啓介の思っている人であれば、
――今までの僕と姉の人生がなんだったのか?
と考えさせられてしまう。
啓介は、自分の弟が死んだものだと思っていた。恵も同じように思っているに違いない。
啓介は父親を問い詰めた。
「弟の正則は、本当に死んだのかい?」
父は、何とかごまかそうとするのかと思ったが、
「お前も、大人になったことなので、離しておくべきか」
と言って、恐る恐る話し始めた。
「弟の正則は、ある人の養子にもらわれて行ったんだよ。ちょうどその時お父さんは大きな借金をしていて、養子にほしいという人からお金を借りていたので、どうしても、断ることができなかった。それをお前たちに分からないようにするために、弟は事故で死んだということにしてしまったんだ」
「そんなことができるのかい?」
「正則を引き取ってくれる人に万事任せることになって、それから正則がどうなったのか私もよくは分からないんだ。とにかくかなりの富豪だったので、任せておけば正則も幸福になれると思っていたんだ」
「弟は幸せだったんだろうか?」