魂の記憶
「バイオリズムのグラフは見たことがある。保険屋さんから見せてもらったんだけど、精神面や肉体面、金銭面などがグラブになっていたよ」
「皆同じような形の線を描いているけど、微妙にずれているだろう? そのうちに交わることもあるんじゃないかな? 俺はバイオリズムのグラフを、鬱状態の時と、躁状態の時で、どんなカーブを描くのか、見てみたい気がしているんだよ」
「そういう意味では君もずっと鬱状態だったって言っているけど、本当は、どこかで躁状態を感じていたことがあったんじゃないかな?」
何かの根拠があるわけでもないのに、こんな意見が出てくるのは、バイオリズムのグラフを思い浮かべたからであろう。
「うん、俺も話をしているうちにそんな風に思えてきた。取れているはずのプラスマイナスの均衡が崩れていたのかも知れないな」
躁鬱状態を経験していて、プラスマイナスの均衡がとれていないとすれば、それは致命的と言えるのではないか。
喫茶店で一人本を読んでいると、いろいろな思いがよみがえってきた。
本を読む時というのは、本の中の世界に入り込んでしまうこともあるが、逆に本を読んでいるつもりでも、内容に関しては上の空、本を読みながら思い浮かべるのは、本の内容の一点をとらえて、そこから自分の感覚を探ることであった。
そんな時に思い出すのも、やはり直近のことではなく、中学時代などのようなかなり前のことだった。
鬱状態の話になると、友達は堰を切ったように話し始めた。
「色が全体的に黄色に見えるんだ。そのせいなのか、いつも身体がだるくて、気分的には夕方のイメージなんだ」
「それって、夕凪の時間?」
「いや、もっと早い時間だ。夕凪の時間というのは、存外短いもので、あっという間に過ぎてしまう。それを思い浮かべた時、俺は夢というキーワードを思い浮かべるんだ」
「どういうことなんだい?」
「夢というのは、どんなに長い夢を見ていたとしても、それは目が覚める前の寸前の数秒間で見ているものだって聞いたことがあるんだ。俺はその言葉を信じているし、実際に、そう思うと納得もさせられる」
「どうしてだい?」
「だって、目が覚めるにしたがって夢というのは忘れられていくんだぜ。たとえ覚えていたとしても、非常に薄くて広いものに感じるんだ。だったら、逆に夢の実態を考えると、本当に小さな濃いものだと考えたとしても、いいのではないかと思うんだ」
鬱状態と夢の世界を結びつけて考えるというのもおかしなものだ。
正則は自分に声を掛けてきた恵という女性をマジマジと眺めていた。社交辞令にも似たありきたりの挨拶の中に、さりげなく本音を散りばめたつもりだったが、思った以上に本音が彼女に感じさせるものだったことが恥かしかった。
しかし、そこに本当に作為はなかったのだろうか? 正則は駆け引きというものがそう簡単にできる方ではなかった。恵に声を掛けられて、素直に嬉しいと思った。思ったことを態度に出してしまうのも、前からのことで、さりげなく本音を散りばめるなどといった小細工などできるはずもないのだ。それをしてみようと思ったのは、
――うまく行かなくてもいい――
という思いがあったのと、
――もし、うまく行ったとすれば、そこに自分の成長が見えるのだから、どちらにしても自分に損はない――
と考えた。
そんな打算的な考えを思い浮かべるくせに、さりげなさなどを表に出すことができるはずもない。そんなことは分かっていたはずなのに、その時の正則が有頂天だったのと、
――相手が恵なら、自分の中の気持ちで確かめてみたいことがあれば、確かめられるんじゃないか――
という思いがあったからだ。
「相変わらず、目力が強いね」
というと、
「えっ、そうかしら?」
とまんざらでもない表情をする。
そこには理由があった。それは、彼女の目力が強いということを最初に発見したのが、正則だったからだ。
いや、正確に言えば、
――自分だと思っている――
ということだった。以前、目力のことを指摘した時、嬉しそうに眼を細めながら、
「そんなこと言われたの。初めてだわ」
と言ったからだ。
その時正則は言ったことを後悔した。
――ひょっとして、彼女は自分の目力の強さを自覚していて、そのことにトラウマがあったのではないだろうか?
という思いが頭をよぎったからだった。
目力の強さというのは、女性を相手に褒めていいことなのかどうかハッキリと分からなかった。今まで目力が強いと思わせる女性が近くにいたことがあったが、彼女に対して誰も目力の強さについて話をする人はいなかったからだ。
誰かに褒められたことでも、他の人にけなされることがなかったと言えるだろうか? ひょっとして、自分の好きな相手から言われた皮肉めいたことだったりするかも知れない。相手は本気で言っているわけではないとしても、受け取る本人が気にしていることであれば、
――相手から傷つけられた――
と思うことだろう。特に好きな相手から言われたのであれば、そのショックは計り知れないものになるだろう。
正則に同じような経験があった。
ついつい表現が皮肉っぽくなっていた頃のことだが、正則には好きな女の子がいた。
正則は褒めたつもりだったのに、相手の表情は浮かぬ顔。
――おや?
と思い、焦った正則は、
「今のは冗談だから」
として、ごまかそうとした。
それが却って相手を傷つけることになった。
「あなたは、冗談で、平気で人を傷つけるようなことが言える人だったのね」
と言われてしまったのだ。
中途半端に相手の気持ちを削いで、自分の立場を曖昧にしてしまおうとすることは、小細工でしかないこと、そして、それがどれほど相手を傷つけているかということに気づいていなかった。
しばらく彼女とは気まずい空気が漂ってしまい、そのまま自然消滅してしまった。
――自分が気の利いたことが言えれば、元の鞘に収まったかも知れない――
とも感じたが、また相手の気分を害してしまうかも知れないと思うと、自分には言えなかった。
「言わずに後悔するくらいなら、言って後悔した方がよかった」
と思うようになり、それからは、言葉には気を付けながら、皮肉っぽい言い方はなるべく避けるようになった。そのおかげなのか、皮肉っぽい言い方をする人には敏感になり、そんな人とは近づきたくないと思うようになっていた。
それから少しして、彼女が他の男性と付き合い始めたことを知った。後悔が頂点に達したが、後の祭りであることは分かり切っていて、どうしようもないことだった。
恵に対して、
――目力が強い――
というイメージは決して悪いものではなかった。人によっては、
――あまりいいイメージではない――
と思っている人もいるだろう。
特に女性だったら、
「あなたのその目は男の理性を狂わせる目だわ」
などと言われたとすれば、それは屈辱的なことだった。
目力が強いというだけで、気が強いというわけではないのだ。見方によっては、
「なるべく深く相手を知ろうとして、必死で相手を観察しようとしている」
というそんな目だったのだとすれば、気が強いというよりもむしろ、
――自分に自信がない――