魂の記憶
由紀子は彼のいう安心感という言葉で、学生時代を思い出した。自分が慕っていた森田恵という女性を思い出したからである。
――あの時の私は、さぞやうっとりとした目をしていたことだろう?
相手は女性であるにも関わらず、男性を慕うような意識があった。別にボーイッシュな雰囲気だったわけではなく、むしろ可愛い雰囲気のある女性だった。
――きっと、目力の強さに圧倒されていたのかも知れないわ――
後から思えば、すぐにその思いに至るのに、その時は目力の強さを感じながら、自分が慕っている気持ちとは別の感情だと思っていたために、この二つを結びつけることはなかった。
――もし結びつけていたら、あれほど彼女を慕う気持ちになったかどうか、分からないわ――
と感じていた。
その気持ちは、社会人になってからも続いていた。一つ年上の恵が、先に社会人になった時は別れを感じることは一切なかったが、由紀子自身が社会人になると、恵との別れを急に感じるようになり、次第に連絡を取ることもなくなった。それまでも恵から連絡をくれることはなかったので、由紀子から連絡を入れなければ、二人の仲はそこで終わってしまうことを意味していた。
頼子は、由紀子が思っているよりも自分の方が強く由紀子を友達だと思っている人だったが、逆に相手がさほどではなかったのに、由紀子の方が慕っていたことで相手に意識させた相手だった。最後まで片想いで終わった人は多かったが、自分の強い思いを受け止めてくれた人は、恵だけだったのだ。
それだけに、恵を想う気持ちもひとしおだった。
恵を想っているにも関わらず、恵は由紀子の視線に関しては上の空なことが多かった。元々恵は目力は強いのだが、時々、虚空を見つめているのを、よく人に見られていた。
「森田さんは、目力は強いのに、いつもボーっとしているように見えるわね」
という話を聞いていたが、他の人は誰も恵の視線を上の空だという人はいなかった。面と向かって話をしている時、急に上の空になるのは、相手が由紀子の時だけだったのだ。
森田啓介に、安心感を感じている時、なぜか恵の虚空を見つめている表情を思い出した。
――あの目は、誰かを慕っている目に見えるんだけど……
と感じていた。
恵と一緒にいる時は、彼女の虚空を見つめる目に安心感を覚えていたはずなのに、後になって思い出すと、そこには安心感とは異なる違う感情があった。
不安な感覚ではないが、どこか不安定さが感じられた。本来なら、虚空を見つめている目にこそ、不安定さを感じるのが当たり前なのだろうが、最初に安心感を感じてしまったことで、不安定さがどこから来るものなのか、自分でも分からなかった。虚空を見つめる目にはやはり曖昧な感情が見え隠れしていて、その方向や距離感がまったくつかめないのではないかと感じさせるほどだったのだ。
その思いは時が経つほど曖昧になっていき、もし、このまま思い出さなければ、いずれは自然消滅していただろう。だが、思い出したということは、消滅させてはいけない何かが目に見えないところで蠢いているような気がして、森田啓介に感じた安心感が、急に薄れてくることがあるとすれば、その後ろに恵を感じているからなのかも知れない。
「僕は、坂本由紀子さんを、本当はずっと前から知っていたんですよ。由紀子さんは忘れているかも知れませんが」
「えっ、そうなんですか? それはいつ頃のことですか?」
「小学生の頃のことですね。僕は途中から引っ越していったので、由紀子さんはあまり意識がないかも知れないんですけど、たまにお話をすることもあったんですよ」
「どんなお話しですか?」
「妖怪のお話をした記憶があります。あなたは、『妖怪を信じない人も多いけど、本当にいるのよ』と言っていました。僕が『どうして?』と聞くとあなたは、『信じる人にだけ見えるのが妖怪なのよ。妖怪というのは、見えようが見えまいが、必ずその人のそばにいるのよ』って言っていたのが、印象的ですね」
「ああ」
そういえば、小学生の頃、それも低学年くらいの頃だったか、お化けや妖怪を本当に信じていた時があった。その時、クラスメイトの男の子で、やたらと妖怪に詳しい子がいて、いつも話をしてもらっていたのを思い出した。
「あの時、いろいろ教えてくれたんだよね。あなたは、本当に妖怪に詳しかったわ」
というと、彼は照れくさそうに、
「本当は全然知らなかったんだけど、君が妖怪に興味があるのを知って、時間があれば、図書館でいろいろ調べていたんだ。君は分からなかったみたいだけど、僕はカンニングペーパーを用意していたんだよ」
と、言って微笑んでいた。
妖怪が話題で仲良くなるというのもおかしなものだが、子供なのだから、許されることだと思っていた。
ただ、もう一つ思い出したのは、その時の少年が、慌ただしく東京に引っ越していったのが印象的だった。
「まるで逃げるようにいなくなったわ」
という大人の言葉に対し、子供心に、
――なんか、可哀そう――
と思ったことを覚えている。
普通なら、まるで夜逃げ同然に逃げ出す人に対し、悪口を言っている人に対し、同調するくらいの気持ちである由紀子なのに、なぜそんなに同情的だったのか、すぐには思い出せなかった。
ただ、その時、近所でちょっとした事故があったのを思い出した。
「納屋に閉じ込められている子供が発見されたんだって」
ちょうどその時、同じ学校の誰かがいなくなったということで、学校総出で捜索していた。警察にも届けて、本格的な捜索を始めようとした矢先に、
「納屋で見つかった」
という話を聞かされた。
由紀子は、
――よかった――
と思った反面、納屋と聞かされて恐ろしい思いがよぎった。
実は前の日に、どこかのカギを見つけ、どこのカギか分からないまま、そのまま捨ててしまったのだった。納屋で見つかった友達が、
「入ったんだけど、カギがかかってしまって、出られなくなった」
と言っているという。
「あそこの納屋は中からも開けられるように、カギは戸棚にあったはずなのに、あの子も知っていたはずだよ」
「どうやら、そのカギがなかったみたいよ」
という話が聞き漏れてきた。
「カギがなかったから、子供が閉じ込められたということ?」
「そういうことなんでしょうね? 伝え聞いただけだから何とも言えないけど」
由紀子は、最初そこまでその会話を意識していなかったが、一人になると急に怖くなった。
そして、由紀子が、
――モノを捨てられない性格――
になってしまったのは、その前後だった。
――あの時、もっとしっかり確かめておけばよかったのかしら?
嫌な予感の確認をしないまま、自分の中でトラウマとなってしまい、時間が経つにつれて、それ以上の確認をする勇気はなくなってしまった。そんな思いを抱いたまま、今に至っているのだ。
――繋がっていなかった線が、繋がりつつあるような気がする――
と思い始めていたのだ。
あの時から由紀子の中で、
――捨てられない――
ということがトラウマとなり、トラウマではあるが、無意識のうちに自分の性格に変わりつつあった。
それは自分から、
――トラウマだという思いを抱きたくない――