短編集4(過去作品)
目を開けて彼女の顔を見た時、感じたことだった。だが、さすがに慣れたとはいえきつい香りに身体が耐えられないのか、
「ハクション」
クシャミが出てしまった。クシャミというのは出る前に自分で分かるもので、何とかまわりに迷惑にならないようにとセーブしようと試みるものである。しかしそれが却って苦しいもので、出た後の顔がカッと熱くなるのを感じていた。
「クスクス」
思わず見つめてしまった彼女がこちらを見ながら笑っている。私もすぐに苦笑し、笑いながら見つめていると、今度は腹の底からおかしさがこみ上げてくるのを感じた。
――何がそんなにおかしいのだろう?
最初は自分でも意味が分からなかった。じっと彼女の一挙手一同を見詰めているが、見れば見るほど初対面ではないような気がしてくる。顔に見覚えはない。どちらかというと行動パターンに覚えがあると言った方がいいのかも知れない。
「あの、どこかでお会いしたことありましたっけ?」
いきなりで唐突な質問には違いなかったが、せずにはいられなかった。
「確か初めてお会いすると思うのですが、言われてみれば初めてではないのかも」
彼女の返事は曖昧で、自信がなさそうに見える。
そういえば態度もどこかモジモジしていて、そこがいじらしく感じるのだが、まるで女子中学生が好きな男の子に初告白するような雰囲気に見える。私は告白された経験などないので、まるで自分が中学時代に戻ったような気さえしてくる。
――中学時代か――
思わず、自分の中学時代を思い出してみた。
私はあまり集団で行動することが好きな方ではないので、よほど友達からの誘いがない限り、皆でどこかへ遊びに行くということもなかった。とは言っても、友達が少ない方ではなく、個々に付き合うことはあった。私のまわりの友人にはそういうタイプが多かったので、私たちはそれで満足だったのだ。
――群れを成すのって、なんか嫌だな――
私の口癖でもあった。
交友関係は狭い方ではなかったと思う。同じメンバーで行動することが希だったこともあって、いろいろな人とのふれあいを大切にしていた。それは男女、年齢を問わずで、たまには相手が学校の先生だったりしたこともある。
そういえば、先生のアパートに遊びに行ったりしたこともあった。一人暮らしで寂しい生活をしていた先生の話し相手くらいに思っていたが、どうやら少し事情が違っていた。
男一人の暮らしのわりには、思ったより片付いている。あまり小綺麗に見えない風だったにもかかわらず、いつもキチンと片付いているのだ。かといって物が少ないというわけではなく、本や書類の類がいっぱいだ。いつも不思議に思っていた。
まだ私がウブだったのだろう。先生の部屋が片付いていることで、そこに女性の影を見なければならなかったのだがまったく感じることはなかった。それからまもなくその先生が生徒と恋に落ち、学校を辞めることを余儀なくされるまでまったく気付かなかった。
「あの先生がねぇ」
「まったく信じられませんわ。教育者としてどういうものなのでしょうね」
PTAのメンバーからそんな言葉が聞こえてきそうである。
問題になってからは結構早かった。私が事情をまったく知らなかったということもあったのだが、噂はまたたく間に広がり、学校側が隠そうとすればするほど、墓穴を掘っているようにしか見えなかった。
私は複雑な心境だった。
先生がかわいそうという思いの中で、
――裏切られた――
という思いがあるのも事実だ。
確かに、弁解らしい弁解もさせてもらえず、一方的に攻撃されている先生を見ているだけで辛かった。普段から無口で、いつも気持ちに余裕を持って生活することを勧めていた先生の余裕のかけらもないような表情は見るに耐えないものだった。
しかしその反面、まわりの声とは恐ろしいもので、世間の反応を見ているうちに、次第に先生の行為が悪いことに思えてくるから不思議だった。多感な中学時代、まだ善悪の判断が自分の中で確立されていない年代ということもあって、世間の意見に敏感でもある。
――あんな先生は即刻クビになればいいんだ――
心の底でそんなことを思っている自分が少し怖くもあったが、集団意識とは怖いものだということに気がつかない。しかしそれから少し話も落ち着いてきて、その話が風化し始めた頃には、私の中で、
――自分が集団意識に流されるなんて……
という思いが次第に強くなってくる。
――一番集団意識を嫌っていた自分ではないか。なぜにまわりの意見にこうも簡単に流されたのだろう?
それからの私は自己嫌悪に陥ってしまい、ほとんどまわりの人たちと話すこともなくなっていた。
そういう意味で私は先生を恨んだ。見当違いに相違ないが、自分をこんなにしてしまったという気持ちは拭い去れず、そんな理屈に合わないような考えをしている自分にさらに嫌悪感をつのらせた。
そんな私を苦しみから救ってくれたのは、高校に入って出会った一人の女性だった。彼女は私よりもはるかに年上で、当時二十代前半くらいだったのではなかろうか。
その時の出会いがどんなものだったか、なぜか思い出せない。何かの偶然だったのには間違いないが、思い出そうとすると頭の中でモザイクが掛かってしまうのだ。思い出すことで彼女の私の中での存在がなくなってしまいそうな、そんな何の根拠もない思いがするのである。
確か初めて出会った日に、そのまま彼女のアパートまで行ったような気がする。初めて入る一人暮らしの女性の部屋、神秘的という以外に表現のしようがない。
「そこに座って、今ジュースでも入れるわね」
キョロキョロと落ち着かない私を制して、彼女は台所からジュースを持って来てくれた。半分くらいを一気に飲み干して、息が切れるくらいだったことを考えても、その日がとても暑い夏の日だったことを思い出させてくる。
「落ち着いた?」
ニコニコと笑いながら見つめるその目は、とても優しかった。
――さすがこれが年上の女性というものなのか――
初めて彼女の顔をまじまじと見たのがその瞬間だった。
「ええ、でも僕、女性の部屋なんて初めて来たもので」
学校では、結構ワルの部類だと思っていた私が、まるで借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。普段「僕」なんて言ったことないのに、自分が恥ずかしかった。
「殺風景でしょ?」
女性の部屋を知らない私にとって、どこが殺風景なのか見当がつかないが、綺麗に片付いていることだけは間違いなく、違和感はない。
「よく分からないから」
言葉の語尾を最後まで言えないなんて、自分で情けなくなった。たいていのことに緊張などしないと自負していたのは、完全に自分の思い込みだったのかも知れない。
「かわいいわね」
まるで呟くように言い放ったが、その時の彼女は私の顔を見ていなかった。視線は下を向いていて、少しはにかんだように見えなくもない。
それまでは必ず私の目を見て話をしてくれていた。あまりにも眩しい視線だったため、私の方が思わず視線を逸らしたくなるほどで、しかし実際は釘付けになった視線に、顔の紅潮を止めることができないでいた。
「私、昌枝っていうの。吉岡昌枝。あなたは?」
作品名:短編集4(過去作品) 作家名:森本晃次