短編集4(過去作品)
そういえば綾子に私のような躁鬱症の気はなかった。あまり喜怒哀楽を表に出さず、どちらかというと喜怒哀楽の激しい私をある時は冷めた目で、ある時は暖かく見守っていてくれた印象が深い。綾子の存在にドキッとしたり、そばにいることにどうかすると違和感を感じることさえあった。そんな私に綾子は気が付いていたかどうか、私には分からないが……。
どちらかというと冷ややかだった綾子。そこに惚れる男も多かったようで、決して美人と言う顔立ちではないが、素朴さの残るその顔は無表情が良く似合った。しかし時折見せる笑顔に惚れる男は私だけではなかったのだ。
何も言わなくても分かってくれる相手、これほど男にとってありがたいものはない。甘えていたのは私であり、冷ややかではありながらその甘えを受け入れてくれる彼女を見ていると、彼女にとって私はなくてはならない存在だったはずだ。
もちろん私が躁鬱症であると始めて知った時の彼女の心境を今となっては計り知ることはできない。いつ知ったのだろう? それすら私に分かるすべもなく、彼女が知った時には、すでに彼女なしではいられない、いや、そばにいること自体がごく自然な状況に陥っていたはずである。
では別れの原因は一体何だったのだろう? それを思い出そうとするのだが、なぜか思い出すことができない。付き合っていた時のことが昨日のことのように思い出せるのに、別れたという事実を認めたくないのか、未だに信じられない。
しかしその日のことは鮮明に覚えている。ある日突然部屋からいなくなったのだ。
いつもならちょっとそこまで買い物に出かけているとでも思うのだが、その日はなぜか綾子が帰ってこないような予感が頭を掠めてた。
部屋に帰っていつものように電気を付ける。いつもであればパッと明るくなった部屋の奥から暖かい空気が漂ってくるのだが、その日は明るさも中途半端、暖かい空気などどこにも感じることができなかった。
「綾子……」
私は声にならないつぶやきを上げ、自分の部屋に帰って来ることがこれほど薄気味悪く感じられたことはそれまでにはなかった。
おそるおそる奥を覗くが、奥には人の気配はまったく感じられない。いつもは狭く感じる廊下が妙に広く感じられ、すぐそこにあるはずのキッチンが遥か彼方に見えていた。
電気を暗く感じたことがその原因だと思うが、それにしても、奥から足元に漂ってくる冷気には、そこから先へ踏み出すための勇気を吸い取る力があるかのようだった。
まるでさっきのことのように思い出す。すっかり冷え切ってしまった身体だったが、部屋に入ってから寒さに対して感覚がなくなったかのようだった。
あの時は本当に予感があった。もう二度と綾子と会うことがないかのような錯覚があり、それが不気味な寒さとなって私に襲い掛かったかのようだった。いつまで続くか分からない冷たさに恐怖を感じ、徐々にもどってくる暖かさすら感じることなく意識が薄れていったに違いない。気が付けばソファーの上に横たわっていて、そのまま寝てしまっていたことにしばらくは気付かないでいた。
その感覚は今の感覚に似ていた。ソファーのクッションを感じることなく、まるで木の椅子の上にいるかのような硬さが身体を包んでいた。
「これが夢であったら……」
意識がはっきりしてくるにつれ、あの時目が覚めたのと同じ状況が頭を巡る。あの時も漠然とした何ともいえぬ恐怖のような寂しさが私を襲い、それが綾子を思う気持ちからくるのは分かっていた。
あたりを見渡す。昨日と何ら変わりない光景のはずなのに、何かが変った気がして仕方がない。昨日まではしっかりとバランスが取れていた部屋のコーデイネートも、今見たら何かぎこちない。バランスが崩れているように思えて仕方がないのだ。
「そうだ、あの時もそうだったのだ」
綾子がいなくなったあの日、同じことに気が付いていた。遊園地に行った時の写真、あれが見えなかったのだ。あの時はよくよく探すとキッチンのテーブルの上にあった。綾子が出ていこうとした時、写真をどうしようかと考ええたのであろう。結局思案の挙句、置いていくことにしたのだが、置き場を迷っているうちにテーブルに放置したまま行ってしまったのだろうと思っていた。
別れた時の原因について思い出せない以上、ここから先は想像の域を出ない。
「私、写真って嫌い」
これが綾子の口癖だった。かくゆう私も子供の頃はあまり好きではなかった。後から見て思い出に耽るのはいつも両親であって、子供心にはどうしても冷めたイメージしか湧いて来ない。私には一人姉がいるのだが、どうやら姉も同じだったらしい。
「お前たちの思い出としてずっと残るんだからね」
と言われても、私と姉にはピンと来ない。
そういえば、姉はどうしているだろう。綾子を見ているとなぜか落ち着いた気分になれるのは、姉のイメージがあったからかも知れない。それを感じたのは綾子がこの部屋から出て行ってからのことである。
姉が結婚したのは五年前、そう恋愛結婚による普通のカップルだった。
しかし私には姉が結婚相手を見る目が、何となく気になっていた。時々遠い目をしているように見え、極端に言えば虚空を見つめているようにさえ思えた。そんな時の姉が私に送る視線、何かを訴えるような視線に見えて仕方がなかった。その頃は女性を意識することはあっても、女性と付き合ったことすらない私だったので、視線の意味はおろか、浅深の度合いが分からなかった。
私は姉から結婚相手のことを、結婚するまで聞かされてなかった。もちろん付き合っていることは知っていたが、相手について何も話してくれなかった。それまでであれば、ちょっとしたことでも私に話を持ちかけてくれたが、そこに姉は私の回答を求めているわけではなかった。
「あなたに話すと落ち着くの。きっと今度もいい方向に行くわ」
姉の口癖である。
「今日は月がきれいね」
姉の言葉を思い出した。あれは月見の季節だったろう。私が学校で遅くなって、駅から徒歩で家路を急いでいた時のことである。
住宅街にある街灯だけでは薄暗く、いつもであればあまり気持ちのよい道ではないのだが、その日はちょうど中秋の名月で、今までにない明るさを保っていた。
月を見ながらの帰途であったが、それほど気にしていなかった。くっきりと表れた光と影の方に神経が集中していたからであろう。
すると今まで一人だと思っていたところ、どこからともなく乾いた靴音がゆっくりとした拍子で聞こえてくるのを感じた。一瞬分からなかったが、それはどうやら前方からのもののようで、細長く伸びた影を追っていくうちにシルエットとして浮かび上がってくるものが見えた。
一見して女性と見えるそのシルエットは、少し小柄でスレンダーな女性を思わせる。そしてしばらく見ているうちにそれがいつも見ている後ろ姿に思えて仕方なくなってきた。
私は小走りに近づく。革靴の乾いた音が当たりに響いたのか、女性がこちらを振り返った。
「ねえさん」
想像通りだったことは私を有頂天にさせた。そして最初見たシルエットに感じたドキッとした胸のときめきをどう表現していいのか迷っている。
作品名:短編集4(過去作品) 作家名:森本晃次