短編集4(過去作品)
植木鉢に植わった花が、シルエットとして浮かび上がっている。そこは出窓になっているのか、カーテンの手前に浮かび上がったシルエットがしっかりと確認できる。
私は無意識のうちに角度を変え、はっきりとその花の確認できるところまで、やってきていた。
色が確認できる。それは真っ赤に彩られていて、明るいところで見れば緑の葉との相乗効果で綺麗に見えるに違いなかった。
――ポインセチア――
そう、クリスマスの時期に恒例の、一年に一度最高の形で街を彩る“クリスマスの花”
である。
ということは、“その時”とはクリスマスの時期なのだろうか?
耳には街でよく聴かれるクリスマスソングが残っている。どうやらその時期であることは間違いない気がする。
耳の奥に“ジングルベル”のメロディーが流れる中、次第に睡魔に襲われてくるのを察した私は、その睡魔に逆らうことなく悦楽の境地に溺れていた。今、自分の気持ちに逆らうことは、今までの快感を殺してしまいそうで、とても身体が言うことを利きそうにもない。
耳鳴りにも似たエコーがメロディーに変わり、次第に意識が薄れていく……。
「星野君、昨日は悪かったね」
会社に着くなり坪井課長が私のデスクまでやってきて、そう呟いた。
「あ、いえ」
それ以上のことは言えなかった。心なしか微笑を浮かべていた課長の顔が、仕事の表情に変わるまで、さほど時間は掛からなかった。さすが管理職、切り替えの早さは今までの営業経験の豊富さから身に付いたものに違いない。
その日の朝、彼女の部屋から出てくる時の記憶は鮮明にあるのだが、どうしても納得の行かないところがあった。
目が覚めると一緒に寝ていたはずのあやの姿が消えていた。真っ暗な寝室に一筋の光が漏れてくるのを感じたが、どうやらそれがリビングとの間にある襖から漏れているものだということに気付くまで、それほど時間は掛からなかった。目が慣れてくると脱ぎ散らかしたはずの自分の衣類が、すぐ横にキチンと畳んであるのが見え、彼女がもうすでに起きていることを示していた。
そそくさと身繕いを済ませると、再度薄暗い中での部屋の中を見渡してみた。
なぜそんな気になったかは、はっきりと分からないが、どうも部屋の様子が昨夜と違っている気がして仕方がない。見渡そうと考えたのは、何となく違いを事前に察知していたのかも知れない。
しばしあたりを見渡すが、どうしても分からない。確かに昨夜この部屋の様子をじっと観察していたわけでもなく、感覚的にしか覚えていない。やはり感覚的に何かが違うとしか思えず、ただ釈然としない思いだけが頭の中に残ってしまった。
まだボッとしている頭を奮い起こすように起き上がると、一筋だけ漏れていた光を呼び込むように、“天岩戸”を押し開けた。
――なぜだろう。襖が重たく感じる――
ガラガラガラという音がけたたましく部屋に響いた。これだけ響くのだからあやが気付かぬわけがない。
甘い味噌汁の香りが鼻をつく。
――玉ねぎとジャガイモの味噌汁――
直感的に感じたのは、味噌汁の中でも一番好きな具の組み合わせだったからである。
「おはようございます」
幾分かハスキーボイスではあったが、寝起きすぐという感じではない。
「ゆっくりおやすみになれました?」
「ええ」
昨夜のことが彼女にとって“記念日”であることは間違いない。てっきりその余韻に浸っていると思いきや、逆にボッとしてあたりを見渡している私を見るなり
「まだ、眠そうですね」
と言って微笑みを浮かべる彼女の表情にはあどけなさが残っていた。
「そんなことはないんだが……」
「そうかしら」
カーテンを全開にしているため、惜しむことなく差し込んでくる朝日に向かって彼女の表情は映えている。
――これが彼女の毎日のペースなのだろうか――
そう感じ、それならばあえてこちらから昨夜のことに触れることもないだろう。
――こんな落ち着いた朝食を摂るなど、最近では考えられないことだ――
まるで気分は新婚家庭だった。エプロンをした彼女が台所に向かっている。それをテーブルに座って待っている私の眠気はすっかり覚めていたが、まだ夢見心地であったことも否定できない。
――まだ夢の続きではないだろうか――
朝食ができてからの記憶が後から考えて、さほどないのはなぜなんだろう?
真っ赤なエプロンをしたまま、一緒に食卓に向かって、たぶんしたであろう他愛もない世間話、その記憶がほとんどないのだ。舌先には会社に着いた今でもなお、先ほど食べた味噌汁の味が残っているというのに、頭の中にインプットされているはずの記憶は、時間が経つにつれ急速に消えていくことを自分でも分かっていた。
確かに忘れたくない思い出である。
しかし彼女のイメージが強ければ強いほど、
――まるで夢のような出来事だった――
と思えてしまい、薄れていく記憶に逆らう気力がなかったのである。
そう考えることが自分の中では自然な感じがして、却って彼女とのことが私にとっても“記念日”となるであろう気がしてくるから不思議であった。
「あら、綺麗ね」
給湯室から女性事務員の声が聞こえる。
私のデスクはそれほど給湯室に近いわけではないが、水道を流す音と、そこにいる女性事務員の声が、今日はやけに響く気がした。
ただでさえ女性の声には敏感に反応する私の頭は、事務員の声のトーンが彼女とあまり似ていないにもかかわらず、思わずそちらを振り向いていた。
「やっぱり、この時期はポインセチアよね」
――ポインセチア――
思わずおぼろげにしか思い出せなかった彼女の顔をはっきり思い出したのは、事務員の一人のその言葉からだった。
「私ね、ポインセチアには妙な思い出があるのよ」
山村恭子という事務員の声が聞こえてきた。なるべく人に聞こえないように話しているのが分かっているにもかかわらず、私にはその声が拡声器で聞いているように、はっきりと聞こえてくる。
「へえ、どんな?」
もう一人の事務員が興味を持った。
山村恭子は短大卒業後、去年入社してきたが、この会社の女性事務員はほとんどが高校卒で占められていることもあり、入社当時から存在感が強かった。
存在感に負けることのない彼女は働きぶりもよく、男女社員問わず信望が厚かった。彼女に関してはどんなに突飛な話でも、誰もがしっかりと聞いている。普通「そんなバカな」と言って最初から聞く耳持たないような話であっても、不思議と彼女なら信じられる。
いや、最後は真実になるのだから、まるで不思議な世界のお話のようだ。
「私、短大時代付き合っている人がいたのね。その人とは高校時代からの付き合いだったんだけど、私は短大に進んで、彼は大学受験失敗して浪人……。かわいそうっていう気になったのか、母性本能が私にもあったのか、高校の卒業式の日に私たちは結ばれたの」
聞いている事務員はただ頷いている。
作品名:短編集4(過去作品) 作家名:森本晃次