短編集4(過去作品)
そう言ってコーヒーを入れてくれたあやに、私は何も聞けなかった。気を遣ってか、ステレオから音楽を流してくれたが、静かな雰囲気の中、奏でるメロディーはクラシックで、ピアノ曲を厳選したCDからのようで、コーヒーには最高の雰囲気であった。
たぶん何も流れていなければ、キーンという耳鳴りの元、もし話し声が聞こえてもそれは遠い世界でのことのように、まるで他人事になってしまうかも知れない。
テレビ、ビデオといった映像があるわけでもなく、五感の中でも“視覚”というものが満たされているわけではないが、それでも“嗅覚”、“聴覚”といった二つが満たされているだけで心地よくなれるというのも本当のことなのだと、今さらながら気がついた。
確かに目のやり場には困ってしまう。いくらか酔いの回ったあやの、すらりと伸びた腕や足は仄かに赤らみ、顔を見つめれば、頬などはすでに真っ赤になり、皮膚が今にも張り裂けんほどに光っているように見える。
焦点の合っていない目は、トロンとなった上下の瞼がいたずらに閉じかかり、潤んだその瞳は明らかにこちらを見つめている。
胸元のはだけそうな服装から、チラリと見えるブラジャーの線がいかにも妖艶で、今にも抱きつきたくなる衝動をいかに抑えるかが、今の私には先決であった。
――しかし、本当に抑える必要があるのだろうか――
いかにも誘われている気がして仕方がない。深夜のこの時間、男を部屋に入れるのである。しかも今日が初対面ではないか。確かに数時間のうちであっても、相手を探ることは十分に可能であるが、それならば理性を抑えることにかけては間違いないなど口が裂けても言えないと思っている私を招き入れたのだから、悪いが彼女の目はふし穴だ。
その妖艶な目に逆らえなくなった私は、まるで催眠術に掛かったかのように、彼女の胸元から目が離せなくなっていた。当然そのことに気付いている彼女も、
「今日は呑みすぎたかしら。少し熱くなってきたわ」
肩から羽織っていたカーデガンを脱ぐと、完全に肩は露出される形だった。胸の形がはっきりと分かるワンピースだけになった彼女の姿勢はすでに崩れていて、こちらに今にも寄りかからんばかりになっている。
優しく肩を抱くまでにまったくの違和感はなかった。それは彼女にしても同じことのようで、初めて触れた肌は、一瞬ピクリとしただけで、逃げようとする素振りはまったく感じられない。
「キスして」
自然な動きの中、息遣いとともに、その一言が漏れるまで一切の無駄はなかった。
言葉を聞くまでもなく、すでに行動に入っていた私の唇が塞ぐまでに、果たして最後まで彼女が言葉を発していたのか、はなはだ疑問である。
――初めて人の口の中に入ったアルコールを味わった――
それが彼女との口づけで感じた最初の思いだった。彼女が私とのキスにどういう思いを感じているのかを知りたいという気にもなっていた。
抱いている彼女の重みが次第に強くなる。すっかり身体を私に預けているのか、それとも足に力が入らないのか、私の身体に密着している範囲がだんだん広くなっていく。
我慢していても、どうしても漏れてくる息遣いも絶え絶えに、無意識であろうが、微かな喘ぎ声が聞こえてくる。
切ない声に私の身体は敏感に反応し、それが彼女にも分かるのか、さらに身体を密着させてくる。
耳元で何かを囁いているのだが、すでに声は擦れていて、意識は遠いところへと流転してしまったかのようである。
胸の鼓動の激しさが、さらに私を興奮させる。お互い立っているのがやっとの状態で、一旦身体を離したかと思うと、今まで閉まっていた隣の部屋への扉が開かれ、私を招き入れてくれる。
そこは寝室であった。真っ暗な部屋の中はリビングからの明かりで目を覚まし、微動だにしなかった内部の様子を雰囲気だけ垣間見ることができた。
もう彼女に迷いなどない。
ベッドの上に投げ出されたように崩れ落ちた彼女を、私は覆いかぶさるように追いかける。
冷え切った部屋のベッドは冷たく、クッションの軟らかさが冷たくて火照った身体にちょうどよくフィットしていた。
これだけ暑く燃え滾った身体なのに、お互い汗一つ掻いていない。貪るように求め合う前の静けさなのか、内に篭った熱さで身体がはじけそうになっていた。
「ああ……」
切ない声が漏れてくる。それが合図であるかのように貪る私の耳には、シーツの擦れる音だけが聞こえていた。淫蕩ではあるが、甘酸っぱさのある雰囲気に身体は正直に反応する。
「あや……。初めて会った気がしない」
「私も……」
静寂を破るかのように言い放った私の言葉を待っていたかのように、彼女はそう答えた。
胸の触り心地、腰の括れ、太ももの張り具合、すべてが初めてではない気がし、さらに耳の奥に残っている喘ぎ声は、自分の記憶の中の何かと一致している。
あやの指も私の身体を確かめるように、ゆっくり這い回っている。その都度反応する私の身体にまるで納得するかのように、執拗に攻め立てるあやは、やはり私と同じことを考えているような気がして仕方がないのだ。
甘く切ない時間が過ぎていく。
そんな中で、あやが呟く。
「愛してくれる?」
「もちろんだよ」
「本当に? もうどこにも行かない?」
「え? それはどういう?」
そこまで出掛かったセリフだったが、その後に襲ってきた快感の波で頭は真っ白になってしまった。後は悦楽の世界に身を任せるしかなかった。
その都度漏れる歓喜の声、それ以外部屋の中はシーツの擦れる音のするくらいで、時を刻む時計の音がやけに耳に響いた。しかし、時間の感覚があるわけでもなく、規則的な音にあわせて体が反応するだけだった。
最初、慣れた手つきに感じられたあやだったが、昂ぶる気持ちとは裏腹に、重ねた身体の硬さや次第に見せるぎこちなさから、まだ開発されていない気がしてきた。
まだ“閉ざされた果実”である彼女は、案の定私を受け入れてからが大変だった。
「初めてだったんだね」
それだけを言うのがやっとで、うつ伏せになったまま顔を上げることのできない彼女にそれ以上の言葉は気の毒で、仰向けになった私はしばらく天井を眺めていた。
――どこかで見たことのある天井――
そう思ってしばし見つめていた。ボーっとした頭で見つめる天井が次第に迫ってくるのを感じる。遠近感が遠のく中、記憶が輻輳している。
真っ暗な部屋の中で蠢く男と女、甘く切ない声が漏れてきて、情事が行われていることくらい想像がつく。
そんな中、次第に目が慣れてきて白いシーツが揺れているのを確認すると、そこにいるのが自分とあやであると分かってしまうのは、さっきまでの艶めかしい時を思い出しているからに違いない。
まったくの第三者になってしまった私は目のやり場に困り、部屋のまわりを見渡した。暗闇の中でほとんど確認できないが、左側の奥にある四角い場所から漏れてくる微かな光からそこが窓であることが分かる。
遮光カーテンであるため、ほとんどぼやけてしか見えないが、目が慣れてくるにしたがって、十分その近くだけでも確認できる。
作品名:短編集4(過去作品) 作家名:森本晃次