短編集4(過去作品)
山村恭子という女性は、たまに露骨とも思えるようなドキッとした発言をすることがある。しかしそこに何の厭味も嫌らしさもなく普通に聞いていられるのは、彼女の人徳なのかも知れない。女性同士でも赤面してしまいそうな会話であるにもかかわらず次の言葉を待っていると、噂で聞いたことがあった。
「その時ね、彼の部屋だったんだけど、真っ暗な寝室で息遣いとシーツの擦れる音だけを感じていたの。私もその時のことを思い出すと少し恥ずかしくなるくらいなんだけど、真っ暗な中でも目が慣れてくると、少しずつあたりの様子が分かってくるでしょ?」
目を瞑るとその光景が浮かんでくる。何しろ自分だって昨夜、同じような思いをしたではないか。心地よい興奮がほんのりとした赤面へと変わり、昨夜の情事とダブッて感じている自分だったが、別に恥ずかしいという思いはなかった。
恭子は話を続ける。
「それでね。ほんのりと分かってきた部屋の様子だったんだけど、真っ赤な花が咲いているのを感じたのよ」
「それが、ポインセチア?」
すかさず相槌が入る。
「ええ、でもクリスマスでもないのに変でしょう? 他の花ではないの、間違いなくポインセチアなの」
もう私にはその話から耳を逸らすことはできなかった。
「でもその後、明るくなった部屋を見渡したんだけど、そこにはポインセチアはおろか、赤い花なんてどこにもないのね。そこで彼に聞いてみたんだけど……。今までその部屋で花を飾ったことなどないらしいのよ。不思議だったわ」
知らない人が聞けば、「夢でも見たのよ」ということで済ますかも知れない。実際話を聞いていた事務員がどこまで信じたか定かではないが、少なくとも私はそのまま聞き捨てていられるわけがなかった。
「私は、高校時代、喫茶店でアルバイトしていたのね。そこでは毎年クリスマスには出窓にポインセチアを置いているんだけど、前の年のクリスマスに見たポインセチアのイメージがあったのかも知れないわ。だから、彼の部屋でもポインセチアの幻を見たのかも知れない」
「へえ、綺麗な喫茶店なの?」
「ええ、ここからそんなに遠くないわよ」
恭子はその店の場所を説明している。するとどうだろう? それは昨日課長が連れて行ってくれたあやの店ではないか。あやとポインセチア、恭子の話とポインセチア、それを結ぶ鍵が昨日の喫茶店。まるで夢を見ているような気分になってきた。
「でもね、次の日、彼はそのことを覚えていないの」
「えっ、それはひどい」
「私も最初そう思ったのよ。私その時が実は初めてで、私にとってはとても大切な記念日なのね。でも彼は私を愛したことは覚えているらしいんだけど、それがまったく違う場所だったらしくって、でもポインセチアの記憶だけあるのね」
その後の話は聞けなかった。何かまだ話しているようだったが、それまでのようにはっきりと聞こえてこなくなったのだ。
その日私は会社の帰り、その喫茶店に寄ってみようと思った。
昨夜の情事が思い出される。甘い悦楽の声の中、そういえば、あやが呟いた言葉を最後まで確認していなかったことを思い出していた。
確かにあやは処女だった。それにもかかわらず誰かが彼女の中にいて、その人は彼女の前から忽然と姿を消した。二度と繰り返したくないと必死に私を求めていた。
――確かその門を曲がれば喫茶店があったはず――
昨日の今日のはずなのに、なぜかおぼろげな記憶を頼りにここまでやってきた。
顔を曲がると、昨日の記憶をはっきりと思い出すことができる。さっきまではおぼろげだったあやの顔も今ははっきりと思い出すことができる。
果たして見覚えのある光景が目の前に広がっていたが、目指す喫茶店しか視野に入らず進んでいくと、ふっとした思いが胸中を掠めた。
私の横を一人の女性がすれ違った。思わず横を振り向いたが、その瞬間がスローモーションになった。
――あや――
そう感じたのは一瞬で、顔を見るとまったく記憶にない女性であったが、明らかにこちらを見て驚いている。そこには懐かしさを含んだ安堵の表情が感じられ、不思議なことにまったく見たこともない彼女に対して、私も今、同じ表情をしていることに気がついていた。
しかしすぐに何事もなかったかのように通り過ぎる彼女を見ると、私も同じように何事もなかったような気がしてくる。しかし心の奥では何か大切なものを失ったような気がして仕方がない。
かすかに感じた彼女の香り、あやの使っていた香水と同じものだった。それで最初に気になったのかも知れない。その瞬間、瞼の奥にポインセチアを感じていたのも事実で、頭から離れない。
私はすれ違った女性が気になり、時々後ろを振り返ったが、すれ違うまでのゆっくりとしたスピードと違い、その都度遥か遠くに感じていた。そしてあっという間に私の視界から消えていたのだ。
絶対に会うことのない人間に出会った気分。
一抹の不安を感じながら私は喫茶店への階段を上り、扉に手をかけた。中からはコーヒー専門店らしく、コーヒーの香りが染み出していて、昨日来た時と同じ思いを呼び起こしてくれる。しかし扉を手前に引いていく度、昨日初めて来たはずのこの店の、今まさに開けようとしている扉を過去に何度も開けたことがあるような気がしてくるのである。
その都度の記憶が溢れ出てくる。
しかしその記憶は私の頭の中に本当にあったものなのだろうか? 店の中の様子が記憶として次第に完成されつつある中、どう考えても昨日来た時と感じ方がまったく違う。
――扉を開ける瞬間のこの胸の動悸は何なのだろう――
明らかに期待と希望からの胸の動悸である。中にいる人に恋焦がれている私がいるのであるが、それはあやではない。確かにあやを恋する私がいるにはいるのだが、あやもまた私を待ち焦がれていたような気がして仕方がない。
扉が開かれるとそこには私の知らない人がカウンターにいる。開けた瞬間、開けている間に感じた記憶はどこかへ飛んでしまい。本当の私に戻っていたのだ。
「いらっしゃいませ」
私がカウンターに座ると、一人の若い娘がおしぼりを手渡してくれた。
「あれ? 君は」
私が瞳を目一杯開け見つめると彼女は微笑むだけだった。
――山村恭子――
私は目を疑った。しかし、彼女は私の顔を見て少しも驚いた様子もなく、ただ営業スマイル以上の好感を持って私に微笑みかけている。
そして何よりも気になったのがコーヒーの香りとともに香ってきた、どこかで嗅いだような匂いに反応したからである。
思わず店内を見渡した。ある一点まで来た時、私の視線はそこで硬直してしまった。
――ポインセチア――
差し込んでくる日差しを一身に受け、真っ赤に光っているのは、出窓に置かれたポインセチアであった。
――この時期にポインセチア――
そこにポインセチアがあること自体分かっていたはずである。しかし今さらそう感じたのは、たぶん初めて見た昨日のあやの部屋を思い出してのことだったからかも知れない。
「ありがとう、あなたの部屋からもらったポインセチア、大事にするわね」
そして、山村恭子が私に向かってこう言ったのである。
作品名:短編集4(過去作品) 作家名:森本晃次