短編集4(過去作品)
BGMはジャズが流れていた。あまりジャズには詳しくないので、曲名などもちろん分からないが、コーヒーの香りと薄暗い店内にジャズは映えていた。
客はそれほど多くもない。
テーブルは奥を除いておおよそ埋まっているのだが、カウンターには不思議と人がいない。テーブルに座っている人のほとんどはアベックで、会話をするというよりも、店の雰囲気を味わいながら、思い思いの雑誌や本を読んでいる。
普通であれば冷たい雰囲気を感じるのだろうが、周りすべてを見渡して、この店の雰囲気に一番合っているような気がする。
カウンターはというと、木のテーブル、木の椅子に、これまた薄暗い雰囲気に映えている。カウンター内部にある、グラスやサイフォンが置いてあるショーケースだけが明るくて、その中で、ママらしき人と、パートであろうか、若い女の子と二人が洗い物に精を出している。
課長は慣れたもので、他方を見ることなく一直線にカウンターの奥へと歩み出る。
するとそれが合図であったかのように、手前のカウンターで作業していたママと思しき人が、そそくさと奥へと移動してくる。
手にはしっかり二本のおしぼりが握り締められていて、我々が座るとすかさず差し出してくれる。
「いらっしゃい、珍しいわね、坪井さんが他の方を連れてくるのは」
「そうだろう、ここでは会社や仕事を持ち込みたくないからね」
それを聞いてママは二度、三度と頷いている。自分が課長の立場でもそうだろうという思いと、課長の性格なら納得が行くという二つのことへの頷きなのだろうと思える。
「あ、いらっしゃいませ」
ママに集中していた目を横に逸らすと、そこにはもう一人の女の子がポツンと佇んでいた。
ママに集中していてはいたが、彼女のことも気になっていた。そうでなければ急に声を掛けられて、たぶんびっくりしていただろう。それがなかったのは、心の中に彼女の存在があったからに他ならない。
「初めてお目にかかるかな?」
課長が笑顔で話しかけた。
「あ、最近入ったあやちゃんです。よろしくね」
ママがすかさず紹介してくれた。課長も初めてだったんだと思うと、なぜかホッとしている自分がいることに気付いた。
しかしその時のママの、私を見る目の鋭さに、私は気付いていなかった。
「あやちゃん」はママに紹介されるまま、何度も頭を下げていた。それが初々しさを感じ、たぶん微笑ましい顔を彼女に向けていたくなっていた。
「こちらこそ、よろしくね」
と、課長は言葉を掛けたが、私にはただ微笑むだけしかできなかった。
さすが課長、常連だけのことはある。
ポーカーフェイスなのか、あやはほとんど表情を変えない。こういう商売で、ポーカーフェイスというのは、あまりよいことではないだろう。愛想が悪いと思われると損をすることになるはずなのだが、私はなぜかホッとしたものを感じる。
“癒される”というのとはまた違うのかも知れないが、あまり笑顔の大安売りをされるのも困ったものである。しかし、彼女に笑顔が似合わないとは思えない。どちらかというと見てみたいのだ。
――私が笑顔に変えてやろう――
と思ってしまうほど、何となく弱々しく見えるのは私だけではないかも知れない。
時折見せる、どことなく焦点が合わないような視線、それでいてチラチラと見せる、私への視線の熱さ、そのアンバランスさが妖艶な雰囲気と、情熱的な雰囲気を代わる代わる私に見せてくれる。
私を見つめる潤んだ目を最初に感じた時の胸の動悸は、今に始まったことではない。以前にも同じような思いをしたことがあり、それもごく最近の気がするのだが、相手が誰でいつのことだったのかなど、はっきりと思い出すことはできない。
――それにしても、どこかで見たことあるような――
あやを見た時に最初に感じた思いだった。しかし次の瞬間にはそれを打ち消す自分がいて、すぐにその思いがオブラートに包まれてしまう。時々思い出してはすぐにまたオブラートに包まれてしまう……。そんな思いを繰り返していた。
「いやぁ、彼は会社では私が一番信頼している男でね」
この店は喫茶店でありながら、アルコールも置いているようだ。夜になると、スナック代わりに利用する客も結構いるようで、課長はキープしてあるブランデーを飲み始めていた。
少しほろ酔い気分の方が饒舌になるようで、課長は私を褒めまくっている。少し呑み始めた私の顔は真っ赤になり、それをママとあやに見られていると思うと、額に滲む汗を感じた。
ママは尊敬の眼差しを露骨に示してくれる。もちろん営業スマイルと同等なのかも知れないが、それでも私には気持ちよかった。気になるのはあやである。
表情には相変わらず変化は見られない。しかし、明らかに眼差しの熱さは強くなっていて、なるべく気にしないようにすればするほど、視線があやへと向いてしまう。
たぶん彼女も私の視線が分かっているだろう。だが、相変わらずの表情は何を考えているか分からず、さらに彼女の内面に興味を持ちたくなってくるのも仕方のないことかも知れない。
ママはすっかり課長の話にのめり込んでいて、私を相手にしようとしない。
いや、それはひょっとしてわざとではないだろうか? あやが私と話をするように、あえて課長にだけ集中しているのかも知れない。その証拠に、チラチラと何かを即すような眼差しがあやに向けられているではないか。それをあやも分かっているはずである。
チラチラとこちらを見るあやの頬が、仄かに赤らんでいるように見える。緊張による胸の動悸が聞こえてきそうで、そんなあやを見ているとこちらも緊張してくる。
私はこういう場面が苦手ではない。相手が黙り込んでいれば、話題提供するくらいのことは得意であり、それが女性であっても同じことで、逆にそうでなければ、営業など勤まらない。
だが、この胸の高鳴りは何であろうか?
あまり話さない女性を前にしても、若い女性の好きそうな話題とかは頭にあるつもりなので、話の取っ掛かりなどいくらでもあるはずである。しかし今は“取っ掛かり”より、“話す行為”自体に入っていけない自分がいる。
それでもとりあえずと思い、
「ここは最近入られたんですか?」
「ええ」
たった一言彼女は返してくれたが、話した自分でさえ、完全に声が裏返っているのが分かる。それは課長にも分かったようで、一種意外だと言わんばかりに驚いたような目を私に向けた。
だが、それも一瞬で、急に笑顔を見せた課長の表情からは、ホッとしたものすら見受けられた。そこには優しさが含まれていて上司というよりも“兄貴“といった表情である。
そのうち、課長とママに込み入った話があるのか、無言で立ち上がった課長は、そのまま一番奥のテーブルへと向かった。ママも寡黙のうちに続いたが、あまりにもさりげない行動であったため、私もあやもただ見送るしかなかったのだ。
残された二人であったが、まるで呪縛が解けたかのように、あやは動き始めた。
洗い物をしながらであったが、先ほどとは打って変わって、口が滑らかになった。
「営業って大変なんでしょうね」
相手の得意そうな話題から入ってくるなど、どうやら元々は話し好きなようだ。
作品名:短編集4(過去作品) 作家名:森本晃次