短編集4(過去作品)
すれ違う人々
すれ違う人々
「星野君、今日仕事終わってから、何か用事あるかね?」
「いえ、別に」
「じゃあ、今日は私に付き合ってくれないかね」
「ええ、分かりました」
時計を見れば午後五時近く、そろそろ仕事も架橋に差し掛かったころであった。
さすがにこの時間ともなれば表は真っ暗で、夜の帳が下りていた。
営業職である私は、定時である午後六時に帰社できないこともたまにあるが、営業計画をしっかり立てて行動しているせいか、営業社員の中では比較的会社に戻ってくるのは早い方だ。
全体でも十数人といった広くもなく狭くもない事務所で、営業が出払った後の昼間というのは、結構殺風景なものらしい。さすがに一時間ほどは“朝の喧騒”とした雰囲気があるのだが、事務員も営業が出払った後は、のんびりムードだ。
私の帰社時間は大体そんなのんびりムードの時間帯が多い。元々あまりまわりの雰囲気を気にしない私には関係ないことで、お茶を入れてくれる女性事務員もリラックスしたものである。
そんな時間帯を見計らってか、営業課長の坪井課長はいつも私に誘いをかける。今のような二言、三言で済んでしまう会話が多く、アッサリしたものだが、最初に声を掛けられた時にはさすがにびっくりした。
「そんなに肩肘を張らなくてもいいんだよ」
といくら言われても、緊張感から足が震えていた。それでも今は課長から信頼されていると思うだけで、緊張はおろか、自分への自信にもなっているのだ。それだけ課長との会話は自然なものだった。
いつも最初から呑みに行くとは限らなかった。確かにスナック、焼き鳥屋からが多いのだけど、たまには喫茶店でコーヒーを飲んでということも少なくなかった。
課長は喫茶店には造詣が深いと、自分で言っていた。特にコーヒーには目がなく、専門店を探してきては私をそこに誘うのだ。
私も大学時代から、コーヒーには目がない。元々、高校時代までは飲めなかったコーヒーだったが、大学で先輩に連れて行ってもらった喫茶店で飲んだコーヒーの味が忘れられず、自ら雑誌などを見てコーヒー専門店を探し、わざわざ出向いていくのが趣味でもあった。
自分で “高尚な趣味”と位置づけ、我ながら高貴な気分を味わうことに目覚めていた。必ず本屋で文庫本を探してきては、文庫本片手に昼下がりのコーヒー……、何と高尚な趣味であろう。
もちろん馴染みの喫茶店もあった。会社のランチタイムから始まったものだが、コーヒーのおいしさは群を抜いていた。位置的には会社から遠く、たぶん、会社の人間であの店を知っているのは少ないかも知れない。
マスターはフィッシングが趣味で、その仲間が常連となって構成された店で、私のように釣りをしない人の常連は少ないかも知れない。それでもマスターは快く私を迎えてくれる。
常連客が多いせいか、店内は客で埋まることはほとんどない。さすがにランチタイムは多いが、時間を外せば、ゆっくりとコーヒーを賞味することができる。特に仕事が終わってからフラッと寄る分には、落ち着いた店内が私を迎えてくれるのだ。
「星野君、待たせたね」
仕事が終わり、先に会社を出るのはいつも私の方が先だった。
課長は上司として、その日の課としての業務が滞りなく進んでいるのを見届けてからの退社となるので、それも当然のことだった。
街を見ると、ネオンサインも眩しく、
「課長、お疲れ様です」
と、言いながら課長の後をついて歩き始めたが、課長の向かう先はネオンサイン煌く喧騒とした街並みではなかった。会社を出ると裏路地と目されるようなところからビルの谷間を抜け、ゆっくりと確実に歩を進めていく。
街は今クリスマス一色だ。
大きな駅に行けば、イルミネーションはクリスマスバージョンで彩られ、商店街を歩けば、あちこちから「ジングルベル」、「きよしこの夜」が聞こえてくるに違いなかった。
実は、この時期というのは私にとって複雑な思いがある。子供の頃であれば、手放しにウキウキしたものを感じ、テレビやマンガでも嫌がうえにも盛り上がらずにはいられなかった。
しかし、青春時代の過ぎ去りし日を思えば、なぜかこの時期に失恋が集中しているのも事実である。まわりの雰囲気に気分は最高潮となり、結局失恋によってどん底の気分に落とし込まれる。まわりの雰囲気が皮肉に見えるのも無理のないことだった。
背筋を伸ばし、地面を踏みしめるように歩く課長の歩き方は威風堂々としているが、それでいて厭味や違和感を感じさせない。後ろを歩いている私も、自然と背筋が伸び、歩を合わせようとしているのは不思議だった。
ビルの谷間を冷たい風が吹き抜けていく。
この間まで半袖を着て汗が滲んでいたような気がするのは、それだけ課長の後をついて歩くのが久しぶりだからだろうか。会社のシステムが少し変わったこともあり、今秋は何かと忙しかったことが影響している。それでも以前課長と一緒に呑みに行ったのがごく最近のような気がしてくるのは、それだけ仕事に集中していたからに違いない。あの頃はまだビールのおいしい時期だったことを覚えている。
「この辺りは私も最近知ったんだが、意外と洒落た店が多いかも知れないね」
時々後ろを振り向き、私に話しかけてくれる。
通路を歩く人の姿もまばらで、この辺りが駅から遠いことを示していた。
昔のガス灯を思わせる明かりが見える。レンガ造りのその建て方はシックなレトロさを醸し出していて、入り口に向かうまで、数段の階段がついていることも、私を落ち着いた気分にさせてくれるに十分だった。
目指す喫茶店はどうやらその店で、当然私が気に入ることを分かって課長が連れてきてくれたのだ。
「どうだい、星野君。気に入っただろう」
私に向けた眼差しに満面の笑みが浮かんでいることから、どれほど私がその時感動していたかを課長が知っていたことがよく分かった。
「ええ、それはもう。しかしよくご存知でしたね」
「ああ、まあね。これでも僕は営業出身だよ」
坪井課長といえば、営業としても会社に名が通っていた。一営業所だけに限らず、全社で名が通った営業と言えるのではなかろうか。坪井課長の場合はスピード出世としても有名だった。まだ三十歳になったばかりという若さでの課長昇進は、我々営業職の人間の目標とするに十分な存在である。しかもその人が同じ営業所ということも私を奮い立たせるに十分な存在であった。
「この店でリラックスできたから、結構ストレス発散にもなったんだ」
そう言って課長は店へと続く数段ある階段に差し掛かった。
後ろからついて行く私も、大いに興味をそそられる店に違いなかった。
「あ、いらっしゃい」
店の奥から女性の声が響く。少し篭りがちの声ではあるが、扉を開けた瞬間、中から溢れんばかりの湿気を帯びた温かさは、コーヒーの香ばしい香りを運んでくれた。湿気が多い分、声も篭って聞こえるのだろう。
店の中は表の雰囲気に負けず劣らず、レトロさが溢れていた。壁は赤レンガそのままで、少し薄暗い店内が、さらに幻想的な雰囲気を出している。
作品名:短編集4(過去作品) 作家名:森本晃次