宿命
死というものは怖くないのだという風に頭に叩き込まれていたとすれば、それはそれで自分の人生に疑いを持っていないのかも知れない。洗脳されたというべきなのだろうが、そのためには、外部との接触は絶対にダメなはずだった。
確かに晃少年は、数人の友達はいても、大人との接触は、この別荘でしかない。学校にも行っていないし、外部では医者以外とは接触をしていなかった。
他の人が見れば、可哀そうだと思うかも知れないが、それが正しいことであろうが間違っていることであろうが、徹底した孤立が守られているのであれば、それも一つの人生なのかも知れない。
俊三は今、一つの仮説を持っていた。
――狂言誘拐を企んだのは晃少年だが、それを実行に移す計画を立て、シナリオを書いたのは執事ではないか?
と、しかし、執事の今取っている晃少年に対しての態度の裏は、
――晃少年の中に誰か違う人が入りこんでいるおを知っているのかも知れない――
ということだった。
だが、さすがの執事もそれ以上のことは分からない。様子を見るしかないと思っているのだろう。もし、晃少年の中に誰もいないのであれば、晃少年が豹変した執事に対してどんな態度を取るのかということを知りつくしていることで、執事には分かっていることをある程度確かめることができる。それだけに、分からないことがあれば、それ以上身動きすることが危険であることも分かっているのだろう。晃少年の中にいる俊三にとって執事は、一番の敵ではあるが、やりようによっては、一番の味方になってくれるような気がするのは、気のせいではないように思えてならなかった……。
第二章 異臭
晃少年には好きな女の子がいた。
その娘は、晃少年が通っている病院に入院しているのだが、彼女は晃少年よりも、いくつか年上であろう。小学生の低学年くらいの男の子から見て、三歳ほど年上であっても、かなりお姉さんに見えていたに違いない。彼女も、晃少年が低学年の小学生には思えないほどのしっかりとした雰囲気を感じていて、人を寄せ付けない雰囲気だけが表に出ていることを感じていた。
ちょうど次の日は病院への通院の日だった。病院には一週間に一度通っている。別に何か治療を施しているというわけではないが、定期検診のようなレントゲンや採血などを行っている程度だった。
病院まではメイドの一人が連れてきてくれた。執事も一緒に来るものだと思っていたが、病院だけは、執事は一緒に行くことはないようだ。
晃少年が病院で入院している女の子と仲良くなっていることは誰もが知っていることのようだった。午前中に診察を済ませてから、午後は彼女と一緒にいる時間を作ってくれた。執事がついてこなかったのは、一日掛かりになってしまっては、忙しい自分には、一日を棒に振ることは許されないのかも知れない。
その女の子の名前は、佳苗ちゃんと言った。相手のことをかなり年上のお姉さんとして一目置いているくせに、彼女のことを晃少年は、
「佳苗ちゃん」
と呼んでいるようだ。
俊三は佳苗のことを何も知らないはずなのに、目の前にすると、勝手に言葉が出てくるような気がした。佳苗を正面にした瞬間に、俊三の意識の中に、晃少年の記憶がよみがえってきたかのようだ。だが、晃少年の身体の中に、晃少年の意識は存在しているわけではない。佳苗を正面にした時も、晃少年の意識が戻ってきたわけではなく、記憶が俊三の中でよみがえってきたというのが一番適切な表現であろう。
あくまでも今の晃少年の身体の中にある意識は俊三しか存在していない。
――では一体、本当の晃少年はどこに行ってしまったのだろう?
一つ気になるのは、俊三がどうして晃少年の中で「生き直す」ことになったのかということだった。
俊三の生きてきた人生のどこかに、晃少年との接点があるのかも知れないと思ったが、記憶の中を紐解いても、どこにもそんな記憶は存在しない。
――自分が生き直すためには、生き直す相手の記憶を消してしまわなければいけないのだろうか?
と思ったが、そのわりには、要所要所で、晃少年の記憶がよみがえってくるのだ。それは晃少年の主観的な意識ではなく、俊三が感じていたであろう晃少年の記憶だったのだ。
記憶に対して、俊三は特殊な考え方を持っていた。
一言で「記憶」と言っても二種類ある。一つは、表から感じるものと、もう一つは中から感じるものである。前者は思い出すもので、後者はよみがえってくるものであった。
つまり、俊三が考える晃少年の記憶は、中から感じるもので、よみがえってくるものであった。
初めて見たはずの佳苗を見て、
――本当に初めてなんだろうか?
と感じた。
佳苗は俊三の初恋の女の子に似ていた。今まで好きになった女の子のほとんどは、初恋の女の子を彷彿させるもので、初恋の女の子に恋をした瞬間、自分がどんな女の子が好きなのかということが決定したような気がしていた。
初恋の女の子は、俊三の中で永遠の存在だった。
「初恋は成就することはない」
という言葉通り、うまくいくことはなかった。なぜうまく行かなかったのかということを考える気もしなかったが、それは、今から思えば、初恋の思い出を汚したくなかったという思いからだったのかも知れない。
その日は、佳苗の方から晃少年に話しかけてきた。
「晃くん、診察終わったの?」
分かりきっていることを聞いてきた。佳苗は見るからに余計なことを口にするタイプではなさそうだったが、晃少年の前では従順なようだった。ただ、それは表向きは晃少年でも、中身が四十歳の俊三なのだ。小学生の女の子の気持ちくらい、分かって当然だと思っていた。
ただ、どうしても視線だけは見上げるようになってしまう。これだけはどうしようもない。晃少年の記憶がよみがえるのは、上を見上げる視線のせいなのかも知れない。そう思うと俊三は、複雑な心境になってきた。
「うん、終わったよ。佳苗ちゃんこそ、体調の方はいいのかい?」
この言葉は俊三の意識の中から出てきたものではない。勝手に口が動いて、声になったものだった。
「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
何ら変哲のない会話なのに、佳苗の気持ちが分かってくる気がした。晃少年だったら、分かるはずもないこと、そして俊三の意識ならなおさら分かるはずものないことでも、二人の意識と記憶が一緒になれば、分からないことも分かってくる気がした。
ただ、複雑な心境だった。
――佳苗ちゃんは、僕と同じなんだ――
晃少年の記憶が、俊三に向かって呟いている。呟いている言葉を、俊三だけが聞いてあげることができるのだが、誰も聞いてくれないのに呟いている虚しさとは違い、晃少年の呟きは、俊三の意識に深く入り込んでくるようだ。
俊三は、晃少年が自分の言葉で話していないことに気付いていた。どこかぎこちないのは、自分にも覚えがあった。
――やはり、晃少年にとっての初恋なんだ――
自分の三十年前を思い出す。
あの時も近所に住んでいたお姉さんだった。母親同士が仲が良かったこともあって、一緒にいる機会が多かったが、それが自分の初恋だと気付いたのは、本当に最後のことだった。