宿命
ということを感じない限り、絶対に自分の中に他に誰かがいるなどということを感じるはずもない。ひょっとすると、生まれてきた時、本来であれば存在していたはずのその人の魂は最初からなく、生まれ変わった人の魂が、最初からその人の魂であったかのような場合もあるだろう。
そんな時も、生まれ変わった人は、物心つくまで、今まで生きてきた意識を赤ん坊の中で感じている。物心ついてからは、やはり他の人と同じように、生まれ変わった人間の過去の意識は消えてしまう。消えてからの意識の中には、生まれ変わったなどという感覚は絶対に表に出ることはない。
――どちらにしても、人間は必ず誰かの生まれ変わりなのではないか?
と考えるのは、かなり突飛ではあるが、無理なことなのだろうか?
物心がつくまで、生まれ変わった人の魂の感じたことが、その人の成長にとって不可欠で、いわゆる本能として培われているのだとすれば、決して無理な発想ではないように思える。
死んだ人全員がそうだとは言わないが、即死以外の人は、意図せず苦しみながらでも生き長らえた分、生まれてきた人の本能として役立つのだとすれば、生まれてから物心がつくまでの意識のないことは説明がつく。
――もっとも、こんな発想、誰もする人はいないだろうが――
晃少年の中に入りこんだ俊三は、そう思っていた。
――晃少年の中で生き直しているのだから、晃少年が物心つく頃になっても、晃少年の中から僕の意識が消えることはないだろう――
と思っている。
それよりも、晃少年の魂というのは本当は最初からなかったのではないかと思う方が無理がないのかも知れないと考えていた。元々生まれた人に魂がない時、その人の中に入りこんだ人は生まれ変わったわけではなく、生き直そうとしているのかも知れない。元々その人に魂に入る人は決まっていたのかも知れないが、その人が即死してしまったのであれば、魂が彷徨うことはなく、直行で死の世界に行くからだ。
死が決まっていると、まわりの人も覚悟している晃少年は、まわりの考えを敏感に察知していたいたのだろう。
――自分は死んでしまうのだ――
と考えた時点で、彼の魂は死んでしまったのかも知れない。そこに俊三が入りこんだ。俊三は晃が死ぬことはないと思っているので、自分の中にいる晃少年を探したが見つからなかった。
そんな時、晃少年の本能が意識して止まない相手、それが異臭を放つ佳苗だった。
俊三は、晃少年が佳苗のことが好きだと思っていた。自分と同じ運命を持っている佳苗に惹かれたとしても無理もないことだ。普通なら臭くてたまらない異臭であっても、晃の中にいれば、決して辛いものではない。むしろ、愛おしさを感じるほどだった。
晃少年が佳苗の中にいるのではないかと思った時、元々いたはずの佳苗はどこに行ってしまったのかを考えてみた。
――ひょっとして、死んでしまったのだろうか?
俊三は、佳苗のことを意識していた。
今までは晃少年になったつもりでの意識だったが、今回は少し違う。
――晃は、僕がこの身体に入りこんだ時からいなかったんだ――
ということが分かってから、今まで自分が晃を意識していたのが何だったのかを考えてみた。
確かに晃少年の足跡は、身体の中に残っていて、どこかに潜んでいるように思えた。それは、現実世界であれば、気配のようなものだというのが表現としては、一番近いものになるだろう。
そして、その気配について最近感じたのが、
――晃少年の本能――
だった。
もし、晃少年が身体の中にいたとすれば、後から入ってきた俊三のことを意識できるであろうか? 意識できたとすれば、俊三の存在をいかに自分を納得させられるような結論を導き出せるかというのも興味のあるところだ。
晃はまだ少年なので、なかなか自分を納得させられる理屈が思いつくわけではないだろうが、それでも納得させられるとすれば、最後は俊三と同じ結論に達するはずである。
つまりは、
――本能のようなものだ――
ということである。
自分の意識していることとは別に勝手に身体が動いたりすることを、
「本能によるものだ」
ということを、いつの間にか意識するようになる。
それは誰かから教えられるものなのか、それとも、本やメディアから知識として得られるものなのか、気が付けば備わっているものだ。
教えられるものではなく、最初から生まれつきに備わっている意識だとすれば、
――本能を意識するということも、一種の本能だ――
という、堂々巡りを繰り返す、まるで禅問答のような滑稽さに、思わず苦笑いをしてしまうだろう。
俊三は、今まで自分が生きてきた四十年ほどの間に、何度本能というものを感じたであろうか?
本能とは、
――潜在意識を作り出すものだ――
と、考えたことがあるが、潜在意識というものを考えた時、今度は夢というものを考えてみた。
――夢というのは、潜在意識の成せる業――
というのが、俊三の持論で、潜在意識があるから夢の世界といえども、暴走してしまいそうになっても、暴走することはない。つまりは、
――夢の世界だから、何でもありなんだ――
という考えではないということだった。
――夢の中であれば、空を飛ぶことも不可能ではない――
と思ったとしても、実際には、地べたから数センチ上を這うようにしてしか進めない状況になっている。しかも、空気を水の中のように、泳いでいる感覚でしかないので、進むスピードは歩く方が早い。
――しょせん、夢の世界であっても、自分が理屈として納得できることでなければ、成立しない――
ということになってしまうのだ。
――現実世界が表であれば、夢の世界は裏になる。表と裏は、光と影のようなもの。どちらかが存在すれば、片方も存在する。現実世界も夢の世界も、そして光と影も、表裏のように、必ず存在しているものと言えるのではないだろうか?
頭で考えていることと、本能とは、表裏のような関係だと思うと、納得のいくところがある。四十年生きてきた人生で、俊三はそこまでは考えていたように思えてきた。確かに前の意識を持ったまま新しい身体に入りこんで、生き直している俊三だったが、すべてを覚えているわけではない。何か肝心なことを忘れてしまったように、絶えず頭の中で意識していたのだ。
俊三は、大学三年生の時、一度放浪の旅に出たことがあった。
その時は、自分が何をしたいのかということを探すつもりで旅に出た。放浪と言っても、お金がなかったわけではなく、食事代や宿代には困らなかった。大学二年生までに、少し無理と思えるほどのアルバイトで、かなりのお金があったのだ。
お金の使い道も定かではなかったが、とりあえずお金を貯めることを目的に、アルバイトをしていた。知り合った人もいたが、さほど仲良くなったわけでもなく、深く話をしたわけでもなかったので、人間関係で勉強になったことはなかった。
逆に孤独を感じていた。