宿命
という性格は決して持ってはいけないものだと自覚していた。あくまでも主に仕える人間としては、自分を殺してでも、表に出ることをしてはいけなかった。
そんな執事だからこそ、余計にもう一人の自分の存在を意識できたのかも知れない。しかも執事は、
――もう一人の自分の存在を意識できるのは、夢の中だけだ――
ということを分かっているように思える。
ということは、執事は現実社会を生きながら、
――自分は夢を見ているに違いない――
と思っているようだ。
――現実世界と夢との境界線というのは、一体どこにあるというのだろう?
そのことは執事だけでなく、人は誰でも一度は考えることである。それを考えることが無駄なことだと誰もが思っても、執事だけは無駄だとは思えない。思った瞬間に、自分の性格を否定してしまうことになるからだった。
交通事故に遭った執事は、あっという間に死んでしまった。ひょっとすると、死んでから魂だけになった時、自分が死んだということを認識していなかったのかも知れない。死んでしまったことに気付かずにいるというのを想像してみると、想像できてしまう自分が怖かった。
俊三は、自分が生き直していることを意識している。生まれ変わるのとでは、まったく違っているという意識もあった。
――生まれ変わるためには一度死ななければいけない――
自分の魂は一つしかないのだから、自分が抜けてしまった身体は抜け殻になっているはずだ。そのためには死んでしまわないと、新しい肉体に入ることはできない。しかも、元々の自分が死んだその時に生まれた人に移ることで、生まれ変わったことになるのだ。
生まれてすぐには、身体に魂は宿らない。その間隙をぬって、その人の中に入りこむのだから、乗り移ってから物心がつくまでに考えたことは、完全にその人の身体から抜けているのである。
それを思うと、生まれてから物心がつくまでの間の記憶がまったくないのも理解できる。生まれて間もない頃なのだから、考える力を持っていないということで誰もが納得しているのも無理もないことだが、そのことに誰も疑問を抱くことがないというのも、考えてみれば不思議なことだった。
――自分の人生は一度キリで、他の人が冒すことのできないものだ――
ということは当たり前のことのように思っているが、果たしてそうなのだろうか?
――この瞬間にも、何人の人が生まれてきて、そして何人の人が死んでいくというのか――
ということを考えてみると、その中で、
――生まれ変わっている人――
というのがいても、不思議のないことである。
俊三は自分が誰かの生まれ変わりではないかということを考えたことはなかった。いや、考えたことがあったとして、忘れてしまっただけなのかも知れない。もし、そうだとすると、考えた時というのが、誰もが持っている人生のブラックボックスである、
――物心がつくまで――
という時期だったのかも知れない。
言葉も片言しか喋ることができない。後は泣きわめくか、喜びを表現するのに、奇声を発するかなどといった、考察の上での言葉ではない。
一体何を言いたいのかなど、元々考えから出ている言葉ではないので、誰も真剣に考えようとはしない。考えるだけ無駄だからである。それよりも、表情や行動から何をしてほしいのかということを考える方が一般的だ。
その時に、誰かが子供に入りこんでいたとしても、誰も気づかない。そんな発想すら浮かばないからだ。発想が浮かばないということは、信用していないからだと思われがちだが、逆に信用しようとして、信じられないという思いを抱いている人も少なくはない。そんな人に限って、
――こんな発想は自分しかしないだろう――
と思っているに違いない。
誰も想像もしないようなことを自分だけが考えていると思っていることほど、意外とその人にとって信憑性のあることだったりする。それだけに、否定してしまいたいという思いが自分の中にあり、無意識のうちに、
――こんなことは誰も思いつかないことだ――
と思うことで、自分は他の人とは違うという優越感のようなものを感じるようになる。この感覚は、決してまわりの人に悟られてはいけないと思うことで、自己否定が強くなるのだ。
自己否定などできるはずもない。それはまるで、ヘビが自分の身体を尻尾から食べていっているようなもので、そこから先を想像すると、矛盾が矛盾を呼び起こすことになってしまい、まるで異次元を表現する時に使われる、
――メビウスの輪――
を想像させられる。
ただ、その思いは、自分の発想の「堂々巡り」を繰り返らせることになる。
――「堂々巡り」とは、頭の中の矛盾を言葉にしたもので、形にしたものが、「メビウスの輪」という発想に繋がっているのかも知れない――
と思えた。
こんな発想は、晃少年の中に入らなければ思いつくことではなかった。晃少年は俊三にとって、
――生き直している身体――
だと思っていたが、本当にそうなのか、次第に疑問に思えてきたのだった。
最近俊三は、晃少年が自分の前世というものを思い浮かべながら生きていたことを感じるようになっていた。ハッキリと前世だという意識を最初から感じなかったのは、俊三が考えている前世と、晃少年が思い浮かべていた前世という概念が違っていたからなのかも知れない。
第四章 生まれ変わり
以前いた執事のようにあっという間に死んでしまう人、そして、植物状態になって、
――生きているのに、本当に生きていると言えるのか?
と思えるような形になって生きながらえている人、それぞれである。
安楽死が認められていない以上、生き続けなければいけないのは、本人にもまわりの人にも苦痛でしかない。俊三は、植物人間になったり、意識不明のまま寝たきりで、そのままこん睡状態に陥ってしまった人は、
――すでに死んでいるんだ――
と思うようになっていた。
それでも親族は、死んだなどと認めたくはないだろう。苦しくても生かす方法を模索する。それは医者も同じことで、倫理上も安楽死などありえない。
生き直すために、晃少年の中に入りこんだ俊三は、植物人間やこん睡状態に陥った人というのは、
――生まれ変われる相手を待っているのではないか?
と思うようになっていた。
生まれ変わるためには、自分が死んだその時に生まれてきた相手の魂にならなければいけない。
誰でもいいというわけではないのだとすれば、自分が入りこめる相手が現れなければ、生まれ変わることができないのは当たり前のことである。
生まれ変わった時、物心がつくまで、入りこんだ魂が、赤ん坊の中だけで意識を持つことができると思っている。
もちろん、物心がついてしまってからは、生まれてきた人間の魂が、その人の中ですべてを支配することになる。物心がつくまでに考えたことは、そのすべてを忘れてしまうのが約束事になっているのだろう。
――自分が誰かの生まれ変わりなんだ――