宿命
執事にとって、これほど皮肉めいていて、厄介な仕事はないだろう。仕事をこなしたからと言って、大っぴらに褒められたり、褒美がもらえたりするわけではない。執事が仕事をやり終えるということは、すなわち、
――晃少年の死――
を意味しているからだった。
――決して表に出て評価される仕事ではない――
そんな割の合わない仕事だと思いながらも、やはりこれができるのは執事しかいないというのが、まわりの一致した目だったのだ。
晃少年が佳苗を気にし始めたのも、自分が正常ではないという意識があってのこと。俊三はそのことになかなか気付かなかったが、執事を見ていると、自分が晃少年の心を持っているように思えてきた。それは、執事の見る目が、今まで晃少年を見てきた目と同じだったからだ。
――この人は、晃少年の中にいるのが違う人だということに気付いている――
と、かなり早い段階で分かっていたにも関わらず、終始見ている目は、晃少年に向けられていたものと変わりはない。晃少年が自分が正常ではないという意識を持っていることを分かった上での最善の目線を、執事は向けていたのだった。
――優しさの中に、厳しさがある――
晃少年が佳苗を気にしていることを、執事が知っていたのかどうか俊三には分からなかった。しかし、晃少年が佳苗や、佳苗のいる病棟に感じた異臭を、俊三は執事に感じている。
――執事も、本当はしっかりしているように見えるが、どこか精神異常に苛まれているのかも知れない――
と感じた。
しかし、考えてみれば、佳苗に感じた異臭というのが、精神異常者だけに感じるものだという結びつけは、根拠のあることなのだろうか? 晃少年が感じた異臭は、精神異常の人にしか発生しないものだという発想は、晃少年ではなく、俊三だけが感じているものなのかも知れない。
ただ、自分と同じ臭いを感じたことで、晃少年には親近感が湧いた。ただ、それが精神異常の親近感ではなく、
――まもなく終わってしまう命――
という共通点を導いていたのだった。
その時はまだ、自分が精神異常であることに気付いていなかった。その精神異常という考え方が、
――他の人に見えないものが、自分だけには見えている――
という発想で、そのことが精神異常だと思っていた。
他の人と少しでも違うことに敏感だったのは、
――他の人と同じであれば、僕は死なないかも知れない――
という思いがあった。
しかし、違っているからこそ、他の人にはない優れた力が備わっているという考えが、まだ幼い晃にはなかったのだ。
――中途半端な思いを抱いた中、晃少年の魂は、どこに行ってしまったというのだろう?
最初、晃少年の中に入った時に感じたのは、
――死ぬのが怖くて、他の人の中で生き直そうとしているのかも知れない――
と感じたのだが、晃少年が自分のことを精神異常だと思ったと感じた瞬間から、少し違った考えが、俊三に芽生えてきた。
晃少年が、心の中に裏と表を持っているということである。そしてそれが決して二重人格ではないことも分かっていた。二重人格というのは、同じ相手に自分の異なった性格を表に出すこともあるが、晃少年は決して同じ人に対して別の性格を表すことはない。ただ、相手によって性格を変えることで、見る人によって、味方になったり敵になったりするかのようであった。
つまりは、晃少年には自分の性格が一つではないという自覚があったのだ。
他の人はもし二重人格であって、そのことに気付いたとしても、二重人格を自ら表に出そうとはしない。しかし、晃少年は自分に複数の性格が存在していることで、相手によって性格を変えることを覚えた。幼い子供なりの、考えがそこにあったのだろう。
晃少年に入りこんだのは、人生をすでに半ば近くまで生きてきた俊三だった。今までの自分の人生を思い出してきた中で、子供の頃に晃少年と同じように、相手によって態度を変えている友達がいたのを思い出した。大人になるにつれて、態度を変えていると思いこんだことですぐに意識しなくなったが、考えてみれば、その友達は、相手によって、性格を変えていたのかも知れない。
自分の子供時代と、今生き直そうとしている時代は、どこか似ている。年代もほぼ同じくらいのものではないだろうか? ひょっとすると、探せば子供の頃の俊三がどこかにいるかも知れない。もし探し当てた俊三少年が、相手によって性格を変えていたりしたら、どんな思いになるのだろう?
その頃の俊三は、いつも大人の人から怒られているという思いが強かったので、怒られないようにするよう、相手によって態度を変えていたが、性格まで変えていたとは思えなかった。一つ言えることは、
――なるべく、目立たないようにしよう――
という思いだけは、相手が誰であろうと共通意識として持っていた。
晃少年は、佳苗を意識していたが、実際に話をしたことはない。晃少年の中に入りこんだ俊三は、晃少年が佳苗と話をしたことがあるような意識を持っていたが、それは晃少年の妄想であった。あるいは夢だったのかも知れない。
妄想や夢は、入りこんだ人間には、現実に起こったことと区別がつきにくいので、しばらくの間、本当に話をしたことがあるのだと思っていた。
晃少年の意識の中で、次第にその区別が分かるようになってきたのは、現実に起こった事実よりも、夢や妄想の方が、意識の中でなかなか忘れることがないということからだった。
その中でも夢の方が忘れていくという意識がない。その理由として、
――夢というのはいくら印象に深い夢であっても、同じ夢を見ることはできない――
という感覚があったからだ。
もう一度見たいと思っても、見ることはできない。ひょっとすると、限りなく同じ夢であっても、夢から覚めてしまうと、同じ夢だったという意識はない。それは、夢を見ている間は、他の夢が入りこむ隙間がなく、いわゆる夢というものが、
――一話完結――
というものであるに違いないと思っているからであろう。
さらに、
――同じ夢を二度と見ることはできない――
と一度思いこんでしまうと、自分の中でその思いが確立してしまい、夢を見ている自分は、まるでスクリーンを見ているように、主人公である自分とは違う人物になっているのだった。
佳苗とどんな話をしたのかという内容までは覚えていない。しかし、話をした場所は、晃少年が住んでいる別荘だった。
普段は、パジャマ姿の佳苗しか見たことがなかったのに、別荘に現れた佳苗は、白いワンピースに白い帽子をかぶった。まさに、
――お嬢様――
だったのだ。
彼女をエスコートするのは執事の役目で、入り口では後ろにメイドを数名控えさせた晃が、門のところから執事にエスコートされてゆっくりと歩いてくる佳苗を、じっと待っている。
――まるで、教会での結婚式のようではないか――
晃少年が結婚式の様子を知るはずもないので、結婚式を想像したのは、俊三だった。それでも、必要以上にゆっくりとした歩みで自分に向かってくる佳苗を見ていると、
――もっとゆっくりでもいいくらいだ――
と、この時間をたっぷり味わってみたかった。
そう感じたのも、夢だったからだろう。