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宿命

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 本当は、それが佳苗の親だったということを知っている人は、さらに少なかった。佳苗が、新薬に候補に上がっていたことを知っていれば、異臭の理由が分かったかも知れない。新薬を投与する前に、その効果をさらに高めるために、予備薬を飲まされていたのだ。
 予備薬がかなり異臭を発することは、研究者の間では改良の余地として課題に昇っていた。だが、実際にここまで酷い臭いがするとは研究者たちの間でも意外なほどだった。実際にこれが佳苗だったからこんな臭いがしたのだ。いや、佳苗だったという言い方には語弊がある。
「使った相手が女性だったから」
 と言い直すべきであろう。
 晃少年の時には、予備薬を飲まされたが、佳苗の時の半分の量だった。それだけ一年間で、予備薬の開発も進んだのだ。晃少年の身体から少し変な臭いがすることに気が付いた人もいたようだが、佳苗の時に感じたような臭いは、漂っていなかった。
「やはり、予備薬には女性ホルモンの分泌と密接な関係にあって、その影響で異臭が酷いのかも知れない」
 それが改良の課題だったのだ。
 課題は何とか克服された。しかし、佳苗から発せられる異臭に対し、一番敏感に反応したのが晃少年だったということは誰も知らない。しかも、晃少年の中には別人がいて、その人の記憶を刺激したなどということを、誰が信じるであろうか。
 予備薬の開発は、元々交通事故に遭って、瀕死の重傷を負った人に対して使われたのが最初だった。
 予備薬の効果の一番は、痛みを極限まで和らげることだった。生死の境を彷徨いながら、いかに痛みを感じているのかということは、表から見ている分には分からない。だから、効果があるかどうかの検証は皆無に等しかった。しかしそれでも、当初の思惑から外れることなく研究は進み、この研究が新薬の予備薬として効果があることが最近発見されたのだ。
 表では、予備薬は交通事故などの事故に遭った人に使われ、裏では予備薬として使われた。俊三が子供の頃、交通事故に遭った人に感じた異臭が、予備薬によるものだったということを知ることはなかった。ただ、佳苗を晃少年の目線で見ることで、感じた異臭によって彼女が抱えている悲劇を感じたのだ。
――晃少年には分かっていたのだろうか?
 理由は分からないまでも、異臭を感じることで、悲劇的な何かを感じていたのかも知れない。
 晃少年が予備薬を飲まされた時、父親の態度が急に変わった。どこかよそよそしく、そして絶対に晃少年の顔を見ようとはしない。しかも、その顔を覗き込もうものなら、まるで仁王様のような恐ろしい形相が顔に浮かんでいた。それを見た時、
――俺をそんな目で見るな――
 とでも言っているかのように感じたのは、俊三だった。
――どうしてあんな顔をするんだ?
 晃少年の問題ではなく、父親自身の問題であれば、あんな顔にはならないだろう。
――そういえば、あんな表情、今までにも見たことがあったな――
 と俊三は感じた。
 それは晃少年の父親に対してではなく、さらに古い記憶で、確か俊三と同じ職場で働いている人で、その人のそんな表情を見て少しして、自殺したのを思い出した。
――あれは断末魔の表情だったんだ――
 と感じたのを覚えている。俊三の記憶が正しければ、晃少年の父親の表情は断末魔の表情に近いものを感じた。
 だが、父親が死ぬことはなかった。その代わり、顔色がどんどん悪くなっていき、ノイローゼになっていくのを感じた。
 父親が隠れて何かの薬を飲んでいるのを気付いていたが、それが何の薬で、どうしてこんなことになったのか分からなかった。
 晃少年も自分のことに必死で、他のことを考える余裕がなかったからだ。
 俊三は晃少年の身体に入りこんで、初めて晃少年を表から見ようという思いに駆られた時期でもあった。
「時々抜け殻のように考え事をしている」
 と、母親の目に移ったのだろう。父親のことも大変なのに、かなり辛い思いをしていたのも事実のようだ。
 父親のそんな姿を晃少年は、想像できるようだった。俊三はそんな事実を知らなかったにも関わらず、父親が苦悩していることを最初から分かっていた。晃少年の記憶が、俊三に父親の苦悩を感じさせたのかも知れない。
――誰かが晃少年に余計なことを吹き込んだのだろうか?
 いくら何でも、人から聞かされたと言っても、まだまだ少年の晃に、状況を理解できるほどの力があるとは思えない。
――晃少年は、その時二つの意識を持っていたのかも知れない――
 一つは、晃少年自身のもので、もう一つは誰のものだったのだろう? 想像が許されるのだとすれば、ひょっとすると父親の意識だったのかも知れない。
 父親にはそんなつもりはなかったとしても、子供のためとはいえ、自分の子供を実験台に使うなど、父親としては自分のプライドが許さなかった。
 自分のプライドと子供の命を天秤に掛ければどちらが重たいかなどということは、当然のごとく分かるというものであるが、父親にとってプライドは、自分が生きていく上での大切なものだった。
 守らなければならないものを捨ててまで、子供を助けることを美学だと考え、自分を納得させられるほど、父親のプライドは陳腐なものではなかった。父親は自分の中で大きく二つの自分が、激しく戦っているのを感じていた。それをどうすることもできないのが、表から見ているだけの自分で、戦っている二人も自分だということを考えると、どこまでが考えが及ぶ自分なのか、分からなくなっていた。
 そんな父親の視線は、自然と息子に向けられる。中にいる自分が曖昧に感じていることで、視線も虚ろだっただろう。しかし、虚ろであればあるほど、見られている人にとっては気になるもので、向けられた息子とすれば、父親の視線に尋常ではないものを感じると、今度は自分に誰かが話しかけてきているように思えてきたのだ。
 自分に話しかけてきたのは、神父の格好をした紳士だった。
「人生をやり直したいと思っておいでのようだね?」
 と、いきなり不思議なことを言う。人生をやり直すも何も、まだ少年の晃には、やり直すだけの人生を生きていない。
 思わず頭を下げてしまったが、自分がまだまだ生き直すだけの人生を歩んでいないことくらいは百も承知だった。
 しかし、神父と一緒にいる自分は、いつの間にか大人になっていた。大人になっていたどころか、老人になっているではないか。その時はまだ自分の命が危ないことを知る前だったので、大人になった自分を想像したことはあったが、まさか老人を想像するなど、ありえないことだった。
「やり直せるんですか?」
「生き直すことになるけど、それでもいい?」
「どういうことですか?」
「今の身体から違う身体に入りこんで、そこで新しい人生を歩むことになるんだよ」
 子供だったら理解できないような話だったが、その時の晃には神父の言っている意味が半分は分かっているつもりだった。
「ということは、別の人生ということですね? でも、僕の意識や記憶はどうなるんですか? もしまったくなくなるのであれば、それは『生き直す』という言葉とは厳密に違っているように思うんですが」
作品名:宿命 作家名:森本晃次