宿命
しかし、実際に色と臭いを感じることができないのは「夢」であって、過去の記憶というのとでは、微妙に違っている。俊三はその二つを微妙に絡ませながら意識していることで、
――夢を覚えていることなど、無理なことだ――
と風に考える理由だとして、自分を納得させようとしていたのかも知れない。
その時、事故現場に近づくことができて、実際に被害者を目の前に見ることで、現場を瞼の裏に焼き付けることができていれば、少しは感覚も違っていたことだろう。
俊三は、子供の頃から不器用で、ケガが絶えなかった。他の連中と同じようにしていてはケガをしてしまうと、
「あなたは、他の人と同じように遊んではいけません」
と、親から言われていたが、子供の世界は、大人の世界よりもある意味で残酷だったりする。同じことができなければ、遊びに入れてもらえないのは、火を見るよりも明らかだった。
それは子供にとって、一種の死活問題だ。
――自分さえ気を付けていれば――
と思うことで、まわりに気付かせないようにしていたが、子供はそんな態度には敏感なものだ。
俊三が恐る恐る行動していることは、他の連中にはすぐに分かった。まわりが分かっていないと思っているのは本人だけで、そんな思いをあざ笑うかのように、俊三を見る目は冷ややかだった。
俊三もそんな視線には敏感だ。被害妄想の強さが、まわりからの視線に対して敏感にさせる。
――俺って、そんなに分かりやすいのかな?
ビクビクしていることが、まわりに分かりやすくさせているということに、気付いていなかったのだ。
俊三は、何針も縫うケガをすることも少なくはなかった。病院で治療を受けている時、最初はケガをしたことを後悔し、二度と無茶な遊びはしないようにしようと思ったが、子供の世界の死活問題というよりも、親からきつく言われることの方が気に障って、またしても無理な遊びをしてしまうのが自分だということになかなか気付かなかった。要するに意地を張っているだけだったのだ。
しかし、俊三は意地を張ることで、自分の存在をまわりに知らしめていた。意地を張らなくなると、まわりの中のその他大勢になってしまうことを分かっていて、自分がその他大勢になってしまうことを嫌うのも、一種の意地だという堂々巡りを繰り返すことで、意地を張りとおさなければならなくなっていた。
病院は何度来ても気持ち悪かった。いつの間にか自分の身体に病院の臭いが沁みこんでしまうことを分かっていたつもりだが、沁み込むのは服にだけだという甘い考えが頭の中にあった。
それは、病院から離れると、自分でその臭いを感じることができなかったからである。餃子を食べて、ニンニクの臭いをまわりは感じるのに、自分では感じないのと同じことなのに、自分から納得しようとしない限り、臭いを感じることはできないのだ。
臭いが沁みついてしまった自分だったが、沁みついた臭いは肉体にだった。今は自分の肉体を離れ、晃少年の身体の中に入りこんでいるので、病院の臭いは消えていた。事故の記憶は鮮明に残っているので、病院の中での精神病棟での異臭が、事故の記憶に反応し、晃少年の中でも今まで感じなかった異臭を、本当に異臭として感じさせるものになった。その時、晃少年として初めて精神病棟が他の病棟とは違っていることを納得したに違いない。
だが、晃少年にとって、それは余計なことだった。
――なんで、分からせようとしたんだよ?
と、晃少年の叫びが聞こえてきそうだ。
本当は晃少年には、異臭を分かっていたのかも知れない。分かっていて、自分を納得させないことが、佳苗への思いに繋がると感じていた。それは頭で考えていたわけではなく、気持ちの中で感じていたことだった。
――そんなことができるんだ――
頭で考えること以外、自分を納得させることはないと思っていた俊三には、晃少年の考え方が分からなかった。
本当は晃少年が特別なのではなく、子供だから柔軟な思いがそこにあることで、頭以外でも自分を納得させることができることを知っているのだ。
俊三にも同じように子供時代があったはずで、実際に自分を納得させてきたはずなのに、どうしてそのことに気付かなかったのかと考えてみた。
――身体に沁みついた臭いに、自分自身が気付かないのと、同じことなのかも知れない――
と感じていた。
俊三は、子供の頃から、まわりに避けられていたような気がしていた。
あれは小学生のまだ低学年の頃だっただろうか。女の子から、
「晃君、変な臭いがする」
と言われたことがあった。
もちろん、自分の臭いを自分で分かるはずもなく、
「そんなことないよ。なんでそんなこというんだよ」
と、言い返したことがあったが、自分がどんな臭いを発していたのか、聞いたりはしなかった。余計に自分が惨めになるだけだと思ったからだろう。
他の人から変な臭いがすると言われたのは、その時だけだったので、気にすることもないのだろうが、言われたのが一人だけだというのも、余計に気になるものだった。
晃少年が異臭とともに佳苗を意識したのは、病院に来ての初日だった。
今まで住んでいた本宅から、執事やメイドの数人を連れて、別荘にやってきてからの半年ほどは、病院に行くこともなかった。本宅にいる頃は、一か月に一度の割り合いで、大学病院に通院し、ほぼ一日を検査で費やしていたのだ。
子供心にも、自分が病気で、しかも尋常ではないことくらい分かっていた。だが、自分には自覚症状はなく、言われるままの検査だったので、余計に辛かった。
両親から別荘の話を聞かされた時、
――いよいよか?
と、厄介払いされたような気がしたが、執事とメイドだけなら、好きなようにさせてくれたので、それが嬉しかった。
それでも、
「坊ちゃん、申し訳ございませんが、また病院通いをすることになります」
と言われて、一瞬、何のためにここにいるのかという疑問が頭を擡げたが、不思議と怒りや憤りは感じなかった。
――まるで自分じゃないようだ――
どうやら、俊三が晃少年の中に入りこんだのは、その時だったようだ。晃少年が記憶だけを残して、どこかにいなくなってしまった間隙を縫うように、俊三が入りこんだのだ。
――しかし、晃少年はいつ自分の中から消えてしまったのだろう?
他の人の身体に入りこんだ晃は、生き直すということの意味を分かっているのだろうか?
生き直すには、まだほとんど人生経験のない状態なので、それまでの人生に後悔も未練もないはずだ。ただ、死というものを本気で意識してしまっていたのであれば、それも仕方のないこと、ただ、まったく気になっていることがないわけではなかった。
それが佳苗だったのだ。
佳苗に対して恋心を抱いているかどうか、まだ分かるわけではない。ただ、佳苗を見ていると、短い間ではあったが、自分が生きてきたことを納得させる何かを持っているような気がしていた。それを確かめずに、死ぬというのは嫌だと思っていた。