宿命
俊三は、悲惨なバイク事故の瞬間を目撃した。音に気が付いて振り向いたわけではない。偶然見た方向で、出会いがしらに車とバイクの衝突の瞬間を目撃したのだ。バイクは転倒し、火花を散らしながら、クルクルと回りながら、あらぬ方向へと突っ込んでいく。バイクに気を取られていたので、運転していた人がその時どのようになったのか見ていなかったのだが、気が付けば、黒い繋ぎを来た運転手が車からさほど遠くない場所に横たわっているのが見え、遥か先にヘルメットは吹っ飛ばされていた。人間だけが、衝突した場所から、それほど吹き飛ばされたわけではなかったのだ。
車の近くn道路に、キラキラ光るものが見えたのは、ガラスの破片だった。そのことにはわりとすぐに気が付いたのだが、どこのガラスなのか、すぐには分からなかった。野次馬が集まってきていたが、皆一定の距離から近づくことがなかったのは、気持ち悪さから近づかなかったのか、それとも、事故現場を保存の必要があるという思いから近づかなかったのか、そのどちらもであろう。事故を目撃したと言っても、他人事、ショックであっても、冷静さはすぐに取り戻せる。現場の保存を意識したとしても、不思議なことではないだろう。
その時目撃した場所は、馴染みの喫茶店を出てすぐのことだった。少しでも時間がずれていれば、事故の現場に直撃することもなかっただろうに、そう思うと、背筋に寒気を感じた。
だが、目撃した事故から数日経ってから、
――事故を目撃するような予感めいたものがあったように思えてならない――
と感じるようになった。
もちろん、事故を見る前にそんな予感があったのなら、最初から身構えてしまっていたはずなのに、まったくの無防備だったことで、見てしまった事故のショックが抜けることはなかったはずだ。ここでも、自分の中に矛盾が生じている。
自分の中で時々矛盾を感じていることは意識していた。しかし、その矛盾はすぐに忘れてしまう。矛盾をいちいち気にしていては、埒が明かないと思っているからなのかも知れないが、矛盾が堂々巡りを繰り返してしまうことを、その時の俊三には分からなかった。
――堂々巡りを繰り返すのは、矛盾を何とか解消しようとしているからなのではないだろうか?
と考えたことがあるが、矛盾していることが本当に悪いことだけなのか、そんなことまで考えたことがあった。
――矛盾が自分の正当性を認めてくれるのであれば、それもありなのかも知れない――
事故を目撃したことに対して予感めいたものがあったのだとすれば、それは自分に何かの正当性を求めようとしか結果なのかも知れない。そう思えば、矛盾も悪いことではないように思えたのだ。
さすがに事故現場まで近寄ることはできなかった。野次馬は集まってきているし、そのうちに救急車やパトカーのサイレンがけたたましく聞こえてくると、いやが上にも、現場の喧騒とした雰囲気が、自分をその場から置き去りにしていくように思えてならなかったのだ。
事故の現場を見た瞬間、まるで石のような臭いを感じた。同じ臭いを、その後、しばしば感じるようになったのだが、決まって湿気が多く、今にも空が泣き出しそうな天気の時に多かった。
雨が降ってきそうな空模様で、身体に纏わりつく湿気が汗と一緒になり、気持ち悪さを身体が感じている時、鼻をつくような臭いを感じるのは、埃が湿気を伴って、鼻を刺しているからなのかも知れない。
事故があった日は、雲一つない晴天だった。湿気は若干あったかも知れないが、空模様を見ていると、雨を降らせるような湿気ではない。衝突の瞬間、グシャっという鈍い音とともに、鼻をついたのが、埃が湿気を伴ってできる石の臭いだった。
それと一緒に焦げたような臭いを感じたのは、衝突の瞬間に火花が見えたからかも知れない。火花の色は薄い青い色だった。
――おや?
と一瞬感じたが、その色がまるで人だまのように感じられたのは、事故を見た瞬間でなかったことは確かだった。火花が散ったと感じたのは、まるで線香花火のように、小さな光がまるで毛細血管のように飛び散っているからだった。
その瞬間、目の前が急に真っ暗になった。喧騒とした音も、暗さに紛れ、何かに吸い込まれているかのようだった。
その時、暑いとも寒いとも感じなかった。感じたのは、真っ暗な中で広さなど分かるはずもないのに、暗黒は狭い世界の中でだけ繰り広げられているのを感じた。
――暗闇が果てしなく続いてくれては困る――
という発想から来たのかも知れないが、何よりも息苦しさを感じたからだった。事故に遭ってひっくり返っている姿は想像できなかったが、少なくともその場所では、時間が停止していることだけは分かっていた。
――人が死ぬと、一定の範囲で、時間は止まってしまうんだ――
と、その時の俊三は感じていた。
だが、それが間違いだったことに気が付いたのはいつだったのだろう?
社会人になって、今度は違う事故を見たことがあった。その時は、事故の瞬間を見たわけではなかったが、即死だった被害者が転がっているのを見た。その時も最初は、
――時間が止まって見える――
と思い、脳裏を学生の事故がよぎったのだが、どこかが違っているのような気がした。
――何が違っているのだろう?
と感じたが、その答えはすぐに見つかった。
――時間が止まっているわけではなく、ごくゆっくりと進行しているんだ――
と感じた。
その空間であれば、鉄砲の玉も掴むことができるのではないかと感じるほど、本当にゆっくりと時間が進んでいる。
――まるで凍り付いたみたいだ――
と、思うと、さっきまで感じていた色もモノクロームになり、次第に白い部分に青みを帯びて感じられるようになった。その部分がまるで氷のようで、
――凍り付いたようだ――
という発想がそこから来ているのが分かった。それと同時に思い出したのが、前の事故で見た火花が、青白かったことだった。
最初に見た事故から何年も経っているにも関わらず、青白さに共通点を見出したのを感じると、前の事故がまるで昨日のことのように感じられた。
さらに昨日のことでさえ、覚えられないほど記憶力が低下したと感じ始めた頃だったこともあって、
――時間を飛び越えたかのようだ――
と感じるほど、前の事故のことが鮮明に思い出された。
しかし、鮮明に思い出したと言っても、すべてが鮮明だったわけではない。ところどころハッキリと記憶されている部分もあれば、曖昧な部分もある。記憶に時系列が関係しているとするならば、覚えていること、あるいは忘れてしまっていること、どちらかがウソっぽいことになる。やはり記憶に時系列が関係していると思っていることで、忘れてしまうのか、覚えられないのかのどちらかなのだろう。
その時思い出した前回見た事故の記憶は、色と臭いによって思い出されたと言っても過言ではない。普通であれば、一番記憶するのが難しいはずの色と臭いである。それを覚えているということが、記憶をまるで昨日のことのように感じさせる原因となったのだ。