宿命
だが、本当はその記憶はないわけではなく、奥の方に封印されているだけで、時系列が崩れてしまったことで、記憶力の欠如を意識せざる負えなくなっただけのことだった。そのことを理解させてくれたのが、この病棟から漂っている異臭だった。
――一体どういうことなのだろう?
そうは思ったが、逆に、
――人の身体に入りこんでしまったことで、意識と記憶だけになれた。直接感じることができるようになると、これから自分の身に起きることは、すべて意味のあることで、無駄なことはほとんどないのではないか?
と感じるようになっていたのだ。
病棟に近づくにつれて、異臭によって気が遠くなるのを感じながら、俊三は、
――おや?
と何かしらの違和感を感じた。
先ほどから感じていたような気がしていたが、気のせいだという思いの方が強く、特にこんな異様な雰囲気の中では、気のせいだと思うようなことは、余計に気にしないに越したことはないと思っていた。
――晃は、この異臭の中で、気持ち悪く感じているどころか、何かウキウキした気分になってきている――
そんな風に感じた。
考えられることとしては、それほど佳苗のことを好きになったということになるのだろう。
――痘痕もエクボ――
というではないか。好きになった相手のことなら、人が気持ち悪く思うことであっても、却って相手の特徴だと思うことで、余計に好きになるのかも知れない。そんな感覚は、俊三は感じたことがない。それだけ真剣に誰かを愛したことがないからだった。
だが、晃少年が、本気で佳苗を好きになったような気がしない。もし本気で好きになったのなら、俊三にも、晃の感じているものを遠まわしにでも感じることができるのであろうが、愛情という感覚では感じることができない。
もちろん、気になっているのは分かっている。それが恋愛感情に結びつきそうなのも分かっている。しかし、異臭までもがエクボに感じられるほど好きになったようには、どうしても思えないのだ。
――晃という少年は、自分の心の中にもウソをつける少年なのかも知れない――
「自分のことを一番よく知っているのは自分だけど、逆に自分のことを一番知らないのも自分なのかも知れないね」
と、俊三は自分の学生時代の友達からそんな言葉を聞かされて、それが今でも頭に残っているのを思い出した。晃も自分が思っているほど、自分のことを知らないのかも知れない。それは、俊三にも言えることで、きっと自分の顔を鏡でしか直接見ることができないのと同じで、他の人が見る目線と違うことで、鏡に写った自分の姿のように、正反対に見えているのであれば、実に面白いことに思えた。
異臭にワクワクするのは、自分が佳苗のことをどのように思っているのかを、本当に知らないからではないかと思う。表から見て、自分の心の中は佳苗を好きになったと思っているのだろうが、心の奥では、
「好きになってはいけない」
と言い聞かせる自分もいたりするのだろう。
ジレンマであったり、葛藤が、自分の中で渦巻いていることを感じたことがある俊三には、その気持ちは分からなくもなかった。
佳苗という少女を、俊三は直接見たことはない。ただ、想像だけで感じているのだが、イメージは、
――当たらずとも遠からじ――
だと思っている。
一つ言えることは、自分が子供の頃に好きだったお姉さんとは似ても似つかない相手であってほしいと思っていることだった。
女性の好みは人それぞれ、特にまだ子供の晃少年は、これからどんどん、女性の好みが変わっていくことになるだろう。だが、基本は最初に好きになった人であることに違いはない。晃にとって、自分が本当に佳苗のことを好きになったかどうかということは、とても重要なことであった。
俊三は、晃少年が佳苗のことを気にしていると感じた時、少し表から晃少年を見つめていることに気が付いた。完全に晃少年の中に入りこんでしまうと、自分を見失ってしまうような気がしたからだ。
だが、自分が少しでも晃少年の中から出てしまうと、晃少年は、完全な抜け殻になってしまう。ついつい晃少年の意志が、まだ彼の身体のどこかに潜んでいるように思えてならない自分に気が付いて、生き直している自覚がまだまだ足りないことに気付かされた。
本当は、自分が晃少年の身体を借りて「生き直して」いるのだから、佳苗のことも無視しておけばいいのに、無視することができない。もし無視してしまうと、完全に晃少年の記憶の中に佳苗の姿は封印されてしまって、晃少年の意識すべてを感じることができなくなってしまうのではないかと思えたのだ。もし、そんなことになってしまうと、自分はその瞬間から、晃少年の中で生き直すことが不可能になる。あくまでも、生き直す身体が持っている意識を保持したまま、新たな命として自分が生き直しているということなのだ。
――何か、俺の都合のいい考えしかないような気がする――
と思ったが、自分に都合のいい生き方をするにしても、生き直すにはこれほどの制限や縛りがあるのを思うと、
――人生をやり直したい――
などということを考えなければよかったのだ。
俊三は三十代になった頃から、自分の記憶が急になくなってきたのを感じていたが、それは自分だけのことではないのを知らなかった。年齢的には微妙に個人差があるが、誰もが記憶力が急になくなる時期を意識するものだった。
そのことを、誰にも知られたくないと思う。
自分でも信じられず、信じたくないと思っていることもあって、人のことを気にする余裕もなく、自分のことだけで精一杯なのだ。
だから、他人がどうであるかなど、気にすることは俊三にはなかったが、他の人は、
――自分が記憶力を失うくらいなのだから、他の人だって同じことではないか?
と考えるようだった。それだけ自分の記憶力に自信を持っているのだろう。俊三に関しては、元々自分の記憶力には疑問を持っていた。若い頃はそれでも、何とかごまかしが効いたが、三十代になって、一気に記憶力が下がってくるのを感じると、もう歯止めが利かないように思えてきた。
元々が自分の中での記憶力は、見下ろすところにしか存在しなかった。つまり、下を見ていて、少し遠い位置にあるのだ。それがさらに遠くになってしまうのだから、かすかに見えるか見えないかのところまで行きつくのも時間の問題だと思っていた。
ただ、どんなに遠くに行って、小さくなってしまったとしても、自分が見逃すことはないと思っていた。もし、見逃してしまったとすれば、
――すでに頭の中は自分ではなくなってしまうのではないか――
という妄想に憑りつかれることになるだろう。
――それは、誰かに自分の中に入られたことを自覚するからだろうか?
いや、そんなことはない。
自分の中に誰かが入りこむとすれば、その時には、自分の精神も自分の身体から抜け出し、
――生き直す――
という選択をしているに違いなかった。
――俺の肉体の中に、誰か他の人が入っているのだろうか?
と思えてきた。